先日、知り合いのFBの投稿で『頑張れない人たちほど支援が必要』と言うのを見かけた。
なるほど、自助会でも行き辛さをアピールする人たちのほとんどが『できない理由』ばかりを口にする。残念であるが『私はやっています。』とアピールする人ほど容易な口先表現だけだろうと多くの支援経験を基に想像できてしまう。
では、実際に頑張れない人たちへどんな支援が可能だろうか?
結論から言えるのは教科書的な答えで期待外れかも知れないが『声かけ』と『見守り』の2点だと思う。まさに福祉の基本。「どうしたの?一緒に頑張ろうね」「ちゃんと頑張ってること見てるよ!」こういう言葉で頑張れるなら幾らでもできる。でも残念ながらこれで頑張れる人ってほんの一握り。そもそもそういう人は福祉支援に行き着く前で頑張れる人が多い。
では更に必要な支援ってどんなのだろう?
正直なところ、現在の福祉の法ではこれ以上は無理なように思える。これは悪法であるからという理由でないが、ここを掘っていくと今回もテーマから逸れそうなので別に機会を譲ります。
さて、私は他人からよく頑張っていると評価されます。特にスポーツで。でも実際に私は何も頑張ってなんかいません。スポーツもアウトドアも音楽もジャグリングも英語も、自分が好きなことをしているだけ。
好きなことに必死になれない人が好きでもないことにがんばれますか?このブログで度々皆さんに投げかけている言葉ですよね。
では更に、「もっと一所懸命に仕事をしろ」という上司が手抜きや他人任せ、ミス連発って人だったらあなたはどう思いますかますか?懸命にしない人に懸命にしろと言われて素直に従えますか?
自立を支援する支援員が全くの依存体質だったら…、全く同じと思いませんか?
以上のことから私自身が一所懸命生きることこそが本当の支援でないかと私自身が考えるようになりました。自身と向き合い一所懸命生きると人生が充実して楽しい。生きる楽しさを知ると自然に前向きになる。
頑張らない人を頑張らせることより、頑張ることの大切さや面白さを身を持って教えてくれる人がいれば、自然にその和が広がると思います。
残念なことですが私の周りにも好きなことにさえ言い訳ばかりして本気でやろうしない人がいます。そんな人への最後の対処法があります。それはこれまた教科書的ですが『できるまで待つ』の一択。その人が時間を無駄にするのもその人の生き方でありその人の選択。それは肯定すべきこと。決して支援者が悪いわけでない。無理やりしてしまうとそこに依存されてしまう。
以上を踏まえて支援に困った時、そんな時こそ支援者自身が自身と向き合い、あなた自身が頑張っているか、あなた自身が充実しているか、もう一度考えてみてください。