先日の野球の試合で結果が出ました。今季初の先発でいきなり2安打。課題としていたショート方向へのライナー性の当たりが出だした。今季2盗塁目も初級勝負で成功。序盤大量リードで後半を凌ぎきれた。


結果が出ると嬉しいですね。皆褒めてくれた。でも褒められる以上に結果が出たことに満足。これを忘れられないからやめられない。これが私にとってのご褒美かも。


さて、ボールを追いかけるのが大好きな犬っていますよね。ジャグリングの練習してるとそのボールで遊んでほしそうな眼差しで見てくる犬がいる。犬にとってもボール遊びがご褒美のようなものなのでしょう。


そんな犬にボール遊びから遠ざける方法ってあって実はとても簡単なこと。投げたボールを口に咥えて返ってきたらご褒美のおやつを与える。そしてそのご褒美の量を徐々に増やしていく。すると犬は次第におやつを求めて走り出す。


そうしてある時点でご褒美を止めてしまう。すると犬はボールを追わなくなってくる。彼にとってもはやボールはご褒美への手段にしか過ぎない。当初はボールを追う楽しさが目的であったはずなのに。


以上のことは学習に於いても同様でないでしょうか?修学前の児童たちはランドセルを背負って学校でお勉強することを夢見て入学式を迎えるのに1年も経てば勉強に興味を持たなくなる子供が増殖する。ご褒美で釣らないと机に向かわなくなりだす。昭和の時代のムチも現代では否定的なのでご褒美で釣り上げるしかない。


以上が目的と手段を見誤った結果。人はときにこれらを見失いがちになってしまうが、その代償が以上のことでお解りでしょうか?


当初の野球の話しでも、褒められることやご馳走にありつけるために私は努力しない。結果を求める努力こそが私にとってのご褒美だから。


学習においても全く同じで、学べることが自身へのご褒美であり、私自身の喜び、更には私の生き甲斐、つまりは私の人生を肯定するものである。


このように思えだしてから私の生きる世界は一変しました。同様な価値観を持つものが多く現れて共鳴している。私自身が努力すれば周りの人も努力するし、私自身が学べば周りも学びだす。他人の努力不足を嘆く人は自身の努力を振り返ると良いと思います。量が足りないか、目的と手段を見誤っているか、おそらくはそのどちらかだと思います。


もう一度自分と向き合ってみてください。