私の家のトイレにかかっているカレンダー、浄土宗から毎年いただくのだが、そのカレンダーの今月の言葉が
ちょっと不便でちょうど良い
というもの。
これまで便利さの毒を説いてきた私にとって大いに共感できる文言。病気は憎むものではなく感謝するもの、と諭した釈迦の言葉が理解できるようになり、便利さの毒に気づけたので、きっと法然も同じような言葉を残したのだろう。
こんなエラそ~なことを言う私が今日、この言葉に打ち負かされた。
最近の私は学習依存状態だと少し前に話したと思うが、毎日毎日望みの結果が得られるわけでない。毎日毎日同じことを反復して、1週間振り返って進歩なし、なんてことは当たり前。そのうちに嫌気が差したりしてくる。
自分の能力や体力はついつい自分のものだと勘違いしてしまうが、親から授かったもので、他の生命を頂いて持続している言わば借り物。
まあ人並みに動く身体と脳を借りれているのに、もっとできるようになりたいとかできないと嫌だとか、ついついそんな不平不満が出てしまう。自分への感謝をついつい忘れてしまう。
もっと速く走りたい、もっと流暢に外国語を話したい、それって自身の能力の便利さを忘れてしまってますよね。
自分自身の不便さに感謝、ちょっと不便な自分でちょうど良い、そう思えない傲慢な自分に気づいた今日でした。
ちょっと不便でちょうど良い
というもの。
これまで便利さの毒を説いてきた私にとって大いに共感できる文言。病気は憎むものではなく感謝するもの、と諭した釈迦の言葉が理解できるようになり、便利さの毒に気づけたので、きっと法然も同じような言葉を残したのだろう。
こんなエラそ~なことを言う私が今日、この言葉に打ち負かされた。
最近の私は学習依存状態だと少し前に話したと思うが、毎日毎日望みの結果が得られるわけでない。毎日毎日同じことを反復して、1週間振り返って進歩なし、なんてことは当たり前。そのうちに嫌気が差したりしてくる。
自分の能力や体力はついつい自分のものだと勘違いしてしまうが、親から授かったもので、他の生命を頂いて持続している言わば借り物。
まあ人並みに動く身体と脳を借りれているのに、もっとできるようになりたいとかできないと嫌だとか、ついついそんな不平不満が出てしまう。自分への感謝をついつい忘れてしまう。
もっと速く走りたい、もっと流暢に外国語を話したい、それって自身の能力の便利さを忘れてしまってますよね。
自分自身の不便さに感謝、ちょっと不便な自分でちょうど良い、そう思えない傲慢な自分に気づいた今日でした。