今週末に迫った冠地さんとのイベント、その前にFBでいろいろとやり取りをしています。ご存知の肩もいるかもね。

 

彼は生き辛さからの開放の手順を一所懸命発信されています。そこにいろいろ乗っからせていただいています。

 

私は、実は、そういうのは少し飽きてきているんです、正直なところ。

 

もちろん、自助会に参加してくれる人たちとの会話の中で色々話させてもらうし、そこから色々学ばせてもらう。これはずっとやめません。

 

でも、正直生き辛さからの開放って私にとっては簡単なんです。

 

簡単なことなんだけど、それに気づくまでどれほどの時間を要したか?それを考えれば気が遠くなる。社会人になって躓きだしてからでも15年くらいかな。大学で授業に出れなくなってからだと20年くらい?

 

なので、簡単だけど難しい。数学でも答えはわかるけど、何故そうなるのかが解らないなんてあるでしょう。きっとあれと同じ。ぶっちゃけて答えを言うと『ないものはない』そう思えると生き辛さから開放される。

 

人より才能がない、お金がない、バランスの取れた容姿がない…、ないものについつい意識が行ってしまう。でもないものはないんだから仕方ない。いや、努力してもてるのならつべこべ言う暇を努力に当てればよい。諦めがつかないんだったら徹底的にやるしかない。それでダメなら諦めがつくでしょう。

 

私は諦めの悪い人間。友達のバッシー君は『諦めれば手に入る』なんて簡単に言うけど、私はしつこいくらい諦めが悪い。簡単に諦められない。だからしつこいほど努力する。努力して手に入ったものもたくさんある。私の肩書きを見ればお分かりでしょう。

 

でも手に入ったのは一部だけ。努力が全て実ったわけではない。いや、実った努力は1割くらいかも。今でも諦めがつかず泳いだりジャグリングしたり、ピアノもずーっとやり続けて…。

 

私は過去に行き倒れするつもりで紀伊半島を一人野宿旅した。そこで生きる根本を学んだ。用意した荷物以上のものはどう足掻いたって用意できない。かといってずっといつ使うか解らない荷物を持ち歩くわけにも行かない。生活道具を背負って歩くのは苦痛以外の何物でもない。できるだけ軽くしたいが生きていくために必要なものを持たなければ生きることさえできない。

 

そんなところから『ないものはない』そんなふうに諦めがつくようになった。

 

逆にあるもので何とか対応した。あることが有難かった。ないものへの妬みとは逆のあるものへの感謝が生まれた。きっとこの瞬間に根本的な生き辛さから開放されたのだと、その時は解らなかったが今そう思える。

 

なので、答えは簡単。だけどそれを理解することは難しい。時間のかかるものである。

 

それを今日何とかしたい、と言う人に施せるものなど、私には持ち合わせていない。そちらの諦めが優先的。そんな感じで興味が薄れてきています。

 

今回は、冠地さんとのやり取りからこの投稿をするきっかけをいただけました。冠地さんに感謝するとともに、出会わせてくれたバッシー君にも感謝。というか、冠地さんとはまだSNSだけで出会えてないんだよな。