発達障害の自助会を続けていると『普通』とか『平均』とかいう言葉がよく出てくる。ほとほと、発達障害者、とりわけ孤立気味になっている人たちが普通や平均に強い憧れを抱いていることを感じる。
さて、先日よりコミュニケーションのスタイルに積極法と消極法があると述べてきたが、前述の平均や普通に憧れる人たちのコミュニケーションスタイルが消極的になってしまうことに気づきますか?
例えば身だしなみや言葉遣い、周りの人と同じように、これって個性を消してまわりに溶け込む、つまり消極的なコミュニケーション、逆に少しとげがあっても面白みがある方が印象に残ったりする。大河ドラマ『いだてん』の田畑政治なんて、まさに積極コミュニケーションのみを貫いているスタイル。他人に嫌がられることなど構わず、自分が良いと思うことを推し進める。
ドラマの話は特異な例として、世の中では目立ってはいけないとか、皆についていかないといけないとか、まあこれらは軍隊的要素の未だ抜け切らない学校教育の影響もあるかもしれないが、そういう消極コミュニケーションが日本には蔓延していると思われる。
少しはなしは迂回するが、東洋ではやはり消極コミュニケーションが主流で、日本はその中ではまだ個性を重視するように思われる。これら東洋の思想の根底的なものは仏教以上に儒教があると思われる。仏教発祥のインドではこれほど個性を殺さないのではないだろうか?
また、西洋欧米は個性を重視する文化だと一般で思われがちだが、かつてはそうでなかったようである。宗教改革からルネサンス、そして市民革命へと市民自身が自分たちの手で人権を得てきたからこそ東洋とは違う個性を獲得できたようにも思う。
話を本題に戻すが、昨日衆議院議員の森山浩行さんとお会いしたが、現在のように成熟しきった日本社会は、これからは飛びぬけた能力を持つ2割をもっと活用しないといけない、と述べられていた。この2割は能力は高いが拘りが強かったり、コミュニケーションがヘタだったり、で社会から孤立してしまっている人たち、つまりハッタツさんやん!しかし、社会のリーダーたちがこのように私たちをどうすれば活かせるのかを考え出している。
私たちはもはや平均や普通な人に合わせなくてよい時代に足を踏み入れているのかもしれない。令和という時代はそういう時代であって欲しい。これからはもっと個性を貫いて自分の良さをアピールする時代に来ていると思いませんか?
そもそも個性が強い人が弱めようとしても無理がたたるだけ。疲れ果てて孤立していってしまう。個性を消すような消極的なコミュニケーションなんかそろそろやめて、平均や普通を突き抜ける個性を活かす積極コミュニケーションをもっと広めていく必要があるのではないでしょうか?