昨日はコミュニケーションの積極法と消極法についてお話しました。
簡単に説明すると、人によく見られたいとか好印象を与えたいとか、嫌われないようにするとか、そういうものは全て相手からの評価を気にした消極的なもの。積極方は相手がどう思おうと、自分自身の心を常に開き、積極的に人に関心を持っていく考え方。あなたに嫌われてもあなたが好き、こんな風に思えればさほど嫌われない。心を常にオープンに保っておくと人間関係はどんどん膨らむし、そんな人を嫌う人のほうが孤立していく。
さて、この積極コミュニケーション法はどうすれば手に入るのか?昨日は三原則について話しました。身だしなみを整えない。背筋を伸ばさない。ハキハキ話さない。そして、これを相手にも許容するというもの。しかし、これをただただやっていてもなかなか進まないと思う。やはりその意味が解っていないと道に迷いやすい。
なので今日はもう少し掘り下げたヒントを出そうと思う。それもたった一つ。ぶっちゃけこれが答えです、的なの。そんなことしてもエエの?ネタばらして大丈夫?そんな風に思っていただけた方、ありがとうございます。大丈夫なんです。たった一つに向き合うことに私は膨大な時間を要した。未だに向き合い切れたとはいえない。それでもやった分だけ効果は実感できている。
で、そのたった一つのヒント、それはあなたの心の中にある恥ずかしさ。馬鹿にされる、嫌われる、そんな気持ちは自分の心の恥ずかしさから出ているはず。馬鹿にされたって嫌われたって、馬鹿にする人、嫌う人の程度が低いだけのこと。そんなのに取り合う必要がない。なのにそう思えないのはあなた自身が馬鹿にされたり嫌われたりすることを恥ずかしいと思っているからではなかろうか?だから周りの評価に流されてしまう。
私は道化のトレーニングを受けていたとき、ずっとこれがテーマでした。自分の中の恥ずかしさと向き合うこと。何故それを恥ずかしいと思うのかを真剣に考え続けました。結果的にはその恥ずかしさが道化のネタにもなるし、それってそのままコミュニケーションツールになってるんですね。まさにピンチがチャンス、毒が薬になる。
そう、恥ずかしいと言う気持ちこそが心を閉ざしてコミュニケーションを消極的にしてしまう。恥ずかしくなくなるツールばかりを持ち合わせてしまう。心の中に恥ずかしさが消えたとき、人は心を無理なく開き、積極的にコミュニケーションを取れるようになる。
もし仮に、私の講義やワークショップを受けることがあっても、今回のヒントを予習として試している人はより多くを気づけると思う。まさに積極コミュニケーションの必須項目である。
こういう私、心の中に恥ずかしさが一切ないのか?実はそうではない。ここで話すことさえできない恥ずかしさがある。ずっと向き合い中である。私の心の中を見渡して、きっとこれが最後の恥ずかしさのように感じるものが確実に一つ存在する。その恥ずかしさを乗り越えたとき、もう一つ違った世界が見れるのだと思う。
なお、恥ずかしさを乗り越えると言うのは恥ずかしくなくなるくらい努力するのではなく、恥ずかしい自分をさらけ出せることと思っていただいたほうが良いと思う。恥ずかしい自分を自分自身が受け入れることと言い換えられるかもしれない。
さあ、週中には研修会もある。皆さんには存分に恥ずかしさと向き合っていただこうと思います。確実にコミュニケーションの輪が広がるよ。