最近、冠地さんとFBでつながりました。ほとんどテレビを見ない私でも何かで見た記憶のある人。ハッタツ当事者の代表者的存在。
実は8月にイベントでご一緒させていただくことになりました。で、ご挨拶がてら連絡取ると、既にtwitterではやり取りをしたことがあったらしい。全然記憶がない、ハンドルネームが違うのかな?
その冠地さんと言えば『イイトコサガシ』の主宰者。この言葉、いいですよね。いいところを探そう、どういう見方で人と接すると人間関係は潤う、私は常にそう述べ続けています。
さてさて、世の中に目を向けると、昨日の京都の火災事件、なんとも無残な、被害者は何故自分がそういう境遇にあっているのかを全く理解できないでしょうね。そして今朝、雨上がり決死隊の宮迫が芸能界引退か、と言うニュース。あまり関係ないように感じる2つの中に私は一つの共通項を見つけ出しました。
それは、社会への妬み。放火犯は自分の作品が盗作されたと憤ったとの情報が。私もメディアの世界にいたので何度もネタを盗まれたことがあります。メディアに入る前もある会社で事業提案をまとめて提出したら、その名前を上司が自分の名前に書き換えて社長に提出したり(即行でバレたけど)、岸和田のとあるカンカン場のモール(バレバレか?)にイベント規格そのまんまパクられたりとか。まあ憤慨する気持ちは解らんじゃないけど、やったらアカンやり方やわな!きっと、『自分は一所懸命やってるのに、それをいつも誰かに横取りされる』とか、そんな妬みばかり言ってる人じゃないでしょうか?
一方のお笑い芸人、今や大御所といっていいほどの大物。地位も名誉も、もちろん金もしっかり持ち合わせてるそんな人が何で反社会勢力と付き合うのか?伸介もそうやったけど、きっと彼らにも社会への妬みというかそういうものがあると思うのは私だけでしょうか?かれらも、『これだけオレはやってるのに、それに見合った評価がない』という思いはあるのではないでしょうか?
こうして考えると、彼らの中にきっと社会敵視があるのではないでしょうか?兼ねてから私見ではありますが、文明社会の犯罪の99%は社会敵視が生んでいるものだとずっと述べてきました。残りは食べるものが全くなくて食料を盗んだとか、何も買えないほど困窮した人が衝動的に他人の金銭に手を出したとか、そんなものだけと思います。
確かに、社会は冷たく身勝手な人が多い、私自身もそう考えていました。いや、現在も。しかし過去とは違うのはそういう人だけでなく、心の温もりを持った人も身勝手でない人も多く存在しているとも思えること。実はそう思えてから社会との軋轢が減り、社会とのトラブルが減ったことから結果的に社会敵視が弱まっていきました。社会敵視が減るともちろん人間関係も潤いだす好循環。
最初に冠地さんの話題に触れましたが、『イイトコサガシ』を社会にできる人って社会がその人の良いところを探し出してもらえるんですよね。自分のよさを引き出してもらおうとばかりする人はその逆、どんどん軋轢が高まり孤立し社会的視を強めてしまう。
結果から言えば、孤立していたり社会敵視が強い人は周りの人や社会の良いところを探すことによって突破口があるはず。ただ、1日2日やったところで何の意味もない。見返りを求めず、自分の腹に落とせるまでやりきったとき、自分が一人出なかったことに気づけるはず。きっと。
孤立=社会的視⇔イイトコサガシ
一度試してみてはいかがかな?
因みに感知さんとのイベントは8月30日、堺市南区で行われます。ぜひご参加ください。