昨日は今シーズン初めて野球の試合ができた。とは言えゲームはボロ負け。終盤に出場した私も守備機会ゼロ、たった一度の打席は3級三振、それも全て見逃し。

さぞかしフラストレーションのたまる一日だったかと想像されるかもしれないが、実はとても満足。というのも自分の肩の調子を確かめられたから。

試合前は皆練習するでしょ。今回は少し大きな大会だったので皆気合いが違った。そんな中でキャッチボールしたけど、肩に痛みが出なかった。球も周りの人ほどじゃないけど前より行くようになってきた。すこぶる順調。という訳です。

ここのところの私はジャグリングはほとんどせず、ピアノもぼちぼち。テニスも忘れん程度に…。ほぼ毎日、時間を見つけては体幹と向き合っています。

先日サーカスを見る機会があったが、体幹の大切さを改めて実感。ジャグリングも体幹ありきだと悟った。

そしてこの最近は膝との向き合いに割く時間が長い。O脚は大きく改善されたが、これは気を付け姿勢の時であって、やはり膝の状態は改善の余地が大有り。そしてこの膝の状態が私の体幹の限界を低めていることが解りだした。

逆に言えば膝の状態如何で限界も大きく変わりそう。特にボールの勢いが弱いのと膝の関係が密接であることを日に日に教えられる。

話しは変わりますが、日本の文化は基礎を大切にしますよね。基礎学力、基礎体力…。基礎ができないのに応用が利くわけがない、そんな風によく言われる。

だとすると人間の生きる基礎はいったい何なのか?勿論それは健康。これなくして人生は歩めない。そしてその次が知恵。体力だけで生きていくのは至難。それをカバーするのが知恵。

これら2つはそれぞれ基礎体力と基礎学力と言える。そして基礎体力とは即ち体幹力、基礎学力とは即ち論理力と言えると思います。間違っても知恵=知識ではない。

私は生き辛さから論理を悟り、論理を学ぶなかで生き辛さを受け入れた。そうすると毎日が見違えって充実の日々が訪れた。その中で生きる喜びを得て命の大切さを知り、己の命と向き合うなかで体幹を学んでいる。

私にとってスポーツや音楽、ジャグリングでの伸び悩みは基礎である身体ができあがっていなかった結果だと最近強く感じる。

ここ数日の充実は体幹を学ぶ中で論理を極め、論理をもって体幹を究めている、その根幹の手応えだと思う。

誰だって思うように物事が運ばないときはある。どれだけ努力を払っても何一つ変わらないこともよくある。そんなときこそ、先に挙げた2つの基礎、これに立ち戻って欲しい。簡単ではないだろうが、何度も何度も、気が遠くなるほど繰り返すうちに大切なものがきっと見えてくるはず。

私は己の可能性の大きさを日に日に感じています。

人は歳を重ねて成長する。それは知恵だけでなく、きっと健康も同じはず。