子供の頃、お寺で大きな仏像の前に立つのって怖くなかったですか?私は怖かった。理由もなく叱られているようで。

昔の人の知恵の一つだったんでしょうね。神仏だとか祟りだとか怨念だとか、天狗や河童もそう、心の戒めだったのでしょうね。人は疚しい気持ちがあるとそれを見透かされるのが怖い。だから見透かされそうになると恐れを抱くのでしょう。

おねしょしたのがバレそうで怖かったのかも。

この2年ほど、実はこの逆の状態に面倒さを感じています。ブログの読者さんはお分かりでしょうが、私に見透かしてしまえる力が備わりつつあること、これが原因です。

自己肯定、自他分離、これらが理解できているのかを見透かすのに時間はかかりません。全くひどい人には近寄りません。だから私が苛立つことはほとんどありません。しかしその逆、私に見透かされることを怯える人に飽き飽きしてしまいます。

こんなブログもうやめてしまおうか、時々そう考えてしまいます。

相当やましさが心に積もっているのでしょうね、そういう人たち。そしてそれがバレるのが相当怖いんでしょうね。そういう態度でイチコロに見透かせてしまうんですけど。あー面倒くさい。

因みに今の私は仏像も祟りも怖くありません。心にやましさがないからではありません。誰だってやましさがない人などいないでしょう。そういうものです。だから私はやましさを隠そうとはしません。隠そうとするほど見え透いてしまうし、ね。仏はきっと私のやましさを既に見抜いている、その上で生かしてくれている。だからそのやましさと向き合って、私が何をするのかを見てくれている、そんな風に信じています。

もちろん過ちには喝をいただけるでしょう。そしてそこから考えれば良い。

世の中がどんどん見えるようになればそれなりの平穏が訪れますが、見えるが故の苦しみも生まれる、まこと思い通りに行かないもの。修業は続くのである。