ひと月くらい前でしょうか、あるテレビ番組で中央アジアの高原の植物がほとんど育たない地域に様々な植物や作物を根付かせた日本人を紹介する番組を目にしました。

 

それまでは世界の最貧国の一つに数えられるような地域でしたが、彼の努力から幾分生活が豊かになったそうです。地域の人たちもその日本人をとても尊敬し、日本語の歌を学校でも現在でも教えられているそうです。

 

さて、私の活動の取り組みの中に自然生態系の保護があります。具体的には泉大津河口に流れる大津川のアユを保護することによって河川環境への意識を高め、アユ以外の魚類や他の水生生物も豊かになることを望んでいます。

 

先ほど紹介した日本人の活動と、現在の私の取り組み、どこか矛盾するところがないでしょうか?一方では過酷な自然を積極的に緑豊かな大地に変え、一方では人間の影響を最小限に抑えようとする…。

 

生態系保護を訴える人間の多くは外来生物を極端に嫌います。しかし、先ほどの日本人の活動は自信のルーツでもある日本の植物を積極的に移植し人々の暮らしを支えました。現地からすると日本の植物はどこからどう見ても外来種。

 

いったいどちらの活動が正しいのでしょうか?

 

実際に私と活動を共にするグループの中に一切の外来生物を否定する人さえいます。しかし、私は実は少し違った考え方を持っています。

 

私たちの国、日本が古から豊かな国であったのは稲作が大きく影響しています。米がなければこんな大国にはなりえなかったのではないでしょうか?

 

米、日本人にとっては切っても切れないもの、しかしこれこそが2000年ほど前に日本の地に降り立った外来生物そのものです。それ以外にも私たちの食卓を彩るほとんどの野菜も外来生物、私たちの暮らしは外来生物なくしてもはや2000年前から成り立たなかったのではないでしょうか?

 

米は良いがブラックバスはよくない、このボーダーはいったい何を基準にしているのでしょう。ブラックバスはおいしくないからダメ、というのならニジマスは良いのでしょうか?ニジマスによって生息域を追われた生物も、きっとそれが原因で絶滅した古来種もきっといたことでしょう。

 

実際に私もボーダーの基準はわかりません。アユの保護活動の際にも琵琶湖から買ってきて放流すればよい、という過激(??)な意見が出た際には全員一眼となって食い止めました。私の中でもそれは×です。でもその説明はできません。

 

人間の暮らしが豊かになるのならば○と言うのであれば、大都会のほとんど自然のない空間さえ肯定で着てしまいます。

 

本当にいったい何を基準に考えればよいのでしょうか?

 

実は私はこの答えを出そうとは思っていません。人間の価値観とはいつもこういう矛盾に満ちたものなのではないでしょうか?戦争も一方の正義と他方の正義がぶつかってしまいます。何が正しいのか何が間違っているのかなんて、実はとても難しいものではないでしょうか?

 

なので、いつもいつも迷いながら、そんな気持ちのまま活動しています。そしてこれこそが私の修行の一部のように感じています。

 

皆さんはどう感じますか?