昨日の道化のスタジオで学んだことです。
私の主観ですが道化の仕事は『人を笑わせるのではなく、人と心を通じ合わせること』と信じています。そんな私の考えに近い先輩クラウンさんとの話で、
彼女も過去に育児で悩んだ時期があり、その中から子供の話を聞くときに必ず身体を向き合わせることを始めたことから子育てが楽しくなった
という話がありました。
家事で忙しい時などは『今忙しいから後にして』とついつい言ってしまいますが、その言葉を子供に身体を向けて話すのとそうでない場合とで子供への伝わり方が変わる、そのように話してくれました。
私達も何か悩みがあるときに、アドバイスをくれること以上に、自分の話を聞いてくれる、気持ちを共感してくれることに安らぎを感じてくれます。そんな時に用事をしながら聞かれてもなかなか聞いてもらっている気になれません。
子供もきっと聞いてほしいことがなにかあり、結果的に今その願いがかなわなくても自分の聞いて欲しい気持ちが伝わることが大事なのだと諭されました。
人は誰も自分の存在を認めてもらいたいものです。自分が個々にいることに気づいてくれない、そんな思いは生きているに値しない感情を持ってしまいます。
葛城山の山頂で外国の無線局とつながった時の私の喜びは、私がここにいることに気づいてくれる人が遠くにいてくれる実感から生まれたものでしょう。
子供のイタズラや非行なども結局は自分の存在を認めてもらいたい行動であることは、以上からも理解できます。
自分の思いを理解してくれる、自分の存在を認めてくれる人がいる心の安らぎをモテル人は、自分に向き合うことができるようになる、そのように話が加えられました。
私はこれまで『自分に向きあう』ということを何度も述べてきました。
自分に向き合うとは、自分の感情を自分の理性がしっかりむきあうこと、感情と理性の対話です。向き合えない人というのは理性が感情のほうにしっかり身体を向けられないから向き合えないのだと思います。
しかし、昨日の話は眼から鱗状態でした。そもそも『向きあう』という言葉が使われだした理由はやはりフィジカル的に向き合うことの大切さを理解していたから生まれたのでしょう。
相手が子供でなくても同じです。友人、伴侶、同僚、部下…、しっかり人に向き合える人は自分にも向き合えます。自分に向け逢えるようになれば他人にも向き合えます。
一瞬だけ手を止めて、しっかり身体を向かい合わせてみませんか?

私の主観ですが道化の仕事は『人を笑わせるのではなく、人と心を通じ合わせること』と信じています。そんな私の考えに近い先輩クラウンさんとの話で、
彼女も過去に育児で悩んだ時期があり、その中から子供の話を聞くときに必ず身体を向き合わせることを始めたことから子育てが楽しくなった
という話がありました。
家事で忙しい時などは『今忙しいから後にして』とついつい言ってしまいますが、その言葉を子供に身体を向けて話すのとそうでない場合とで子供への伝わり方が変わる、そのように話してくれました。
私達も何か悩みがあるときに、アドバイスをくれること以上に、自分の話を聞いてくれる、気持ちを共感してくれることに安らぎを感じてくれます。そんな時に用事をしながら聞かれてもなかなか聞いてもらっている気になれません。
子供もきっと聞いてほしいことがなにかあり、結果的に今その願いがかなわなくても自分の聞いて欲しい気持ちが伝わることが大事なのだと諭されました。
人は誰も自分の存在を認めてもらいたいものです。自分が個々にいることに気づいてくれない、そんな思いは生きているに値しない感情を持ってしまいます。
葛城山の山頂で外国の無線局とつながった時の私の喜びは、私がここにいることに気づいてくれる人が遠くにいてくれる実感から生まれたものでしょう。
子供のイタズラや非行なども結局は自分の存在を認めてもらいたい行動であることは、以上からも理解できます。
自分の思いを理解してくれる、自分の存在を認めてくれる人がいる心の安らぎをモテル人は、自分に向き合うことができるようになる、そのように話が加えられました。
私はこれまで『自分に向きあう』ということを何度も述べてきました。
自分に向き合うとは、自分の感情を自分の理性がしっかりむきあうこと、感情と理性の対話です。向き合えない人というのは理性が感情のほうにしっかり身体を向けられないから向き合えないのだと思います。
しかし、昨日の話は眼から鱗状態でした。そもそも『向きあう』という言葉が使われだした理由はやはりフィジカル的に向き合うことの大切さを理解していたから生まれたのでしょう。
相手が子供でなくても同じです。友人、伴侶、同僚、部下…、しっかり人に向き合える人は自分にも向き合えます。自分に向け逢えるようになれば他人にも向き合えます。
一瞬だけ手を止めて、しっかり身体を向かい合わせてみませんか?