ハッタツ塾のレビューでの質問です。
人の役に立つから才能であって、自分が熱中できるからと言って才能とすべて呼んで良いのか?という旨のものでした。
この質問には様々な角度から答えることができると思います。これまでのこのブログの焼き回しになりますが、お答えします。
まず、言葉の意味から言うと、辞書で調べるつもりもありませんが、質問者のご指摘が正しいと思います。私の言葉が至らなさをご容赦ください。質問者も杓子定規に質問したわけではないでしょうから、言葉尻ではなく本質でお答えします。
第1の答えとして、人の役に立つかどうかは人が判断することであって、本人は意識する必要はあまりないと思います。逆に、世で言われる才能も多くの人の役に立っているかも知れませんが、全ての人に役立つわけではありません。その才能のために迷惑している人も存在するはずです。
自分の能力が誰か一人の役に立っていれば、十分に才能と呼んでも良いのではないでしょうか?まして、自分が熱中できるのであれば自分という人に十分以上に役立っています。
次に、一つのことに打ち込んでいれば、自然とその周りのものにも打ち込めてきます。電車好きな人はカメラに詳しくなる人が多いですが、よく似たことはどんな世界にもあります。あまり役立たないと思われる事柄でも、そこから派生して世に役立つこととマッチングさせればそれでよいと思います。そのためのマインドマップ・土俵作りをハッタツ塾で提案しました。
最後に、自分が熱中できるものには必ずそこに面白さとか奥深さがあるはずです。自分が面白いと思えるものは他にも同じ興味を持つ人がいます。人が面白いと思うもの、それを極めるのはそれ自体が才能です。マッキントッシュもiTunesもスティーブが初めて考案した時にそれを面白いと感じた人間は皆無でした。周りの反対を押し切って全財産と労力の全てを注いだ彼は誰の目にも変人以外には映らなかったようです。その彼の感性を才能だと感じれた人もいませんでした。
つまり、彼が役立つものを作ると誰も思わなかったわけです。でも彼はやりきりました。もし彼が作ったコンピューターが世に受け入れられなかったとして、彼は無能だったと思いますか?
結果から言うと、途中の段階で一般人が理解できる才能などごく希で、そのほとんどが他にもあるようなレベルのものです。本当の才能などは完成されて初めて一般人が気づくものです。自分の才能は自分自身が見つけ出して、磨き続けない限り本物にはなりません。他人にチヤホヤされるような物を才能と呼びたいのなら、残念ながら私には説く力はありません。
役立つものが才能ではなく、どんな才能も役立てられるもの、そんな風に考えられるかも知れません。

人の役に立つから才能であって、自分が熱中できるからと言って才能とすべて呼んで良いのか?という旨のものでした。
この質問には様々な角度から答えることができると思います。これまでのこのブログの焼き回しになりますが、お答えします。
まず、言葉の意味から言うと、辞書で調べるつもりもありませんが、質問者のご指摘が正しいと思います。私の言葉が至らなさをご容赦ください。質問者も杓子定規に質問したわけではないでしょうから、言葉尻ではなく本質でお答えします。
第1の答えとして、人の役に立つかどうかは人が判断することであって、本人は意識する必要はあまりないと思います。逆に、世で言われる才能も多くの人の役に立っているかも知れませんが、全ての人に役立つわけではありません。その才能のために迷惑している人も存在するはずです。
自分の能力が誰か一人の役に立っていれば、十分に才能と呼んでも良いのではないでしょうか?まして、自分が熱中できるのであれば自分という人に十分以上に役立っています。
次に、一つのことに打ち込んでいれば、自然とその周りのものにも打ち込めてきます。電車好きな人はカメラに詳しくなる人が多いですが、よく似たことはどんな世界にもあります。あまり役立たないと思われる事柄でも、そこから派生して世に役立つこととマッチングさせればそれでよいと思います。そのためのマインドマップ・土俵作りをハッタツ塾で提案しました。
最後に、自分が熱中できるものには必ずそこに面白さとか奥深さがあるはずです。自分が面白いと思えるものは他にも同じ興味を持つ人がいます。人が面白いと思うもの、それを極めるのはそれ自体が才能です。マッキントッシュもiTunesもスティーブが初めて考案した時にそれを面白いと感じた人間は皆無でした。周りの反対を押し切って全財産と労力の全てを注いだ彼は誰の目にも変人以外には映らなかったようです。その彼の感性を才能だと感じれた人もいませんでした。
つまり、彼が役立つものを作ると誰も思わなかったわけです。でも彼はやりきりました。もし彼が作ったコンピューターが世に受け入れられなかったとして、彼は無能だったと思いますか?
結果から言うと、途中の段階で一般人が理解できる才能などごく希で、そのほとんどが他にもあるようなレベルのものです。本当の才能などは完成されて初めて一般人が気づくものです。自分の才能は自分自身が見つけ出して、磨き続けない限り本物にはなりません。他人にチヤホヤされるような物を才能と呼びたいのなら、残念ながら私には説く力はありません。
役立つものが才能ではなく、どんな才能も役立てられるもの、そんな風に考えられるかも知れません。