昨日は自分をモニタリングするのが怖いと投稿しましたが、現在掘り下げ中です。



結局のところ、自分自身が自分自身の本当の姿を見るのが怖い、というところに行き着くのですが、では何故本当の自分が怖いのか?そこが昨日の私の興味の的でした。



これまた結論からですが、自分の中にある望みが大きな障害になっているようです。



結局のところ、心を病んでいる人のほとんどは自分の望みと現実の乖離を受け入れられない場合がほとんどなようです。何かに苛立つ気持ちも自分の思い通りにならないことからおこります、どんな些細なものでも。



このブログでも自他分離の大切さを解いてきましたが、自分自身が望み通りにならないのに自分以外のものに望みを持つとそれこそ問題の原因になってしまいます。



では、何故人は望みを抱くのでしょう?希望などなければ心を痛めることはありません。私自身も離婚した時に強く抱いた感情です。誰にも期待しなければ苛立つこともありません。だけど、自分への期待は捨てられませんでした。



人は望みがあるから生きていけるのかも知れません。



感情は全て心の中で生まれます。その感情は常に二面性を持っています。正が生まれれば必ず同時に負が生まれます。正だけ、負だけ、というものは存在しません。原発も大地震も戦争も、感情で感じた段階で性と負が存在してしまいます。



つまり、望みというものを持ったがゆえに受け入れられなさとの葛藤が始まるのかも知れません。つまり、望みを受け入れるのであれば現実を受け入れる以外に逃れる道はありません。





以上、私の自分を見つめる怖さは私自身への望みの裏返しであったと考えるのが妥当なようです。」自分自身への期待は悪いことではありません。しかし、過度な期待は自分を苦しめるだけです。もう一度自分への期待、望みを検証しなおし、不必要な望みは捨て、整理する必要があるかも知れません。そして、受け入れられない自分が存在することも受け入れなければならないかも知れません。



ふさぎ込みたくなるような自分もまた本当の自分の姿なのでしょう。