昨日はシミュレータの教習を受けました。様々な状況で二輪車の危険性について学ぶものです。個々で一つ、新たな自分を発見しました。



シミュレータはその時の運転データを記録して後にモニタリングできますが、自分の運転記録を見るのが無性に怖く感じました。映しだされるモニタは私の記録を元に作られた映像が流されますが、私自身が写っているのではなく、アニメーション的なものです。と判っていても、見るのがとても怖い、そんな思いが消えません。



実はよく似たことはこれまで何度もありました。スタジオ・ミュージシャン時代は自分の録音された演奏は自分自身で絶対にモニタリングしませんでした。ディレクターがOKだったらそれで○みたいな感じ。人レで制作の時はそうは行かないので、すぐにモニタリングして何度も録音するの繰り返し。一回貯めてしまえば聴く気が失せてしまうのはわかっているので。



同じように自分が写したカメラの映像もなかなか見ることができません。自分自身はカメラマンなので被写体ではありません。ですが、自分が写した映像を見るのが億劫になってしまいます。



現在は自分が撮影した映像の編集もほとんど他でお願いしているのですが、こちらのほうが圧倒的に気が楽です。友人から頼まれた撮影でも、撮影は快く友達価格で行けても、編集は自分でするといつ仕上がるかわからないので、友人にお願いしていますが、こうしていないと大変なことになりかねません。私が編集しない理由、および編集で必ず実費をいただくのは以上が大きん理由です。



このブログに関しても、誤植が多いのは皆さんお気づきでしょう。最近は少し慣れて見返す余裕も少し生まれましたが、基本的には出しっぱなしでノンモニタリングのほうが気持ちいいです。



一方で、台本がある映像やラジオ番組は案外怖がらずにモニタリングできます。ふしぎなきもしますが。





昨日はシミュレータのモニタリングのことから、これまでなんとなく心が重く避けていたことにようやく気づけたようにも思います。実際の怖ささえも見えないようにしていたのだと思います。





さて、ここからが問題です。自分が目を背けることは何か心にしこりが残っている現れだと考えるようが妥当です。現在何か心の重さに囚われているわけではありませんが、この怖さの原因は突き止めたいと考えています。きっとそこからまた新たな自分が見えてくるはずです。



きっと、ありのままの自分をまだまだ受け入れられていないのだと思います。自分の受け入れ方をあんなに偉そうに言っていた私ですが。



まずは、受け入れられない自分の存在自身を受け入れることから始めるべきかも知れません。問を問えることで解は顕在化します。すぐには見えなくても必ず解が存在しているはずです。まずは何が問題であるのかの因数分解から。



また一からやり直しです。



もう一歩先へ



新たな挑戦のはじまり。



きっとそう思います。