最近の私は言いたいことが減っているように思います。
発達障害を受け入れる前の私はそれこそ信号の色の並びにさえもケチをつけたくなるほど世の中に言いたいことがありました。
今もその熱はあります。しかし、ベクトルの幅が間違いなく狭まっています。
今思えば、言いたいことというのは自分の満たされない心からの叫びだったと思います。内容自体は今も間違っていないと思います。むしろ正論すぎて人に受け入れられなかったようにも思います。物事を俯瞰視し、自分の正しさと共に他にも真があることを知って、自分の言いたいことのその先が見えるようになってくると、言わなければならない気持ちが溶けだしてしまいました。
心の不満は自分自身を知る手がかりです。自分を知ることで生き方は変わります。生き方が変われば感じ方も変わります。その頃にはそれまでの満たされない心は既に昇華して、次の悩みが現れます。
今の私にも満たされない気持ちはあります。
しかしその感情を爆発させてもさほど意味はありません。そこからまた自分の生き方を探して行くだけです。
例え人に傷つけられても、騙されても、人を恨むことよりも恨みを抱く自身の心を知ることで自分の生き方を修正できます。そうなれば、もはや傷つけた人、騙した人にさえ感謝できるようになります。
自分の言いたいことをしっかり胸に秘めて人生の教訓にできる、そんな人生を日々歩みたいと願っています。

発達障害を受け入れる前の私はそれこそ信号の色の並びにさえもケチをつけたくなるほど世の中に言いたいことがありました。
今もその熱はあります。しかし、ベクトルの幅が間違いなく狭まっています。
今思えば、言いたいことというのは自分の満たされない心からの叫びだったと思います。内容自体は今も間違っていないと思います。むしろ正論すぎて人に受け入れられなかったようにも思います。物事を俯瞰視し、自分の正しさと共に他にも真があることを知って、自分の言いたいことのその先が見えるようになってくると、言わなければならない気持ちが溶けだしてしまいました。
心の不満は自分自身を知る手がかりです。自分を知ることで生き方は変わります。生き方が変われば感じ方も変わります。その頃にはそれまでの満たされない心は既に昇華して、次の悩みが現れます。
今の私にも満たされない気持ちはあります。
しかしその感情を爆発させてもさほど意味はありません。そこからまた自分の生き方を探して行くだけです。
例え人に傷つけられても、騙されても、人を恨むことよりも恨みを抱く自身の心を知ることで自分の生き方を修正できます。そうなれば、もはや傷つけた人、騙した人にさえ感謝できるようになります。
自分の言いたいことをしっかり胸に秘めて人生の教訓にできる、そんな人生を日々歩みたいと願っています。