親戚が多い私は年に数度お葬式や法事に出席し、ありがたいお坊様のお話を聞きます。



お釈迦様は生きている間に悟りを開かれたので極楽浄土にいらっしゃるが、私達のような凡人は生きている間に悟りを開けないので、死んだ後に浄土に向かう49日間の間に修行を行うのだそうです。



わたしたちは、悟りを開ければ人生の苦しみもなくなり、毎日を楽しく過ごせるのだろうなあ、などとついつい思ってしまいます。しかし、今朝の私は全く逆のことを感じてしまいました。



私が悟りを開いた、などと馬鹿げたことを言うつもりはありません。



しかし、今朝の私は苦しみのない恐怖を感じてしまいました。



先週末は結婚式の撮影の仕事がありましたが、やはりホテルでの仕事は品格や品質やいろいろと窮屈な仕事を強いられます。多くの場合で数日前から気持ちが張りっぱなしになったりします。私にとっては大きなプレッシャーになっています。



今週の私はその仕事を難なく終え、明日は遠足の撮影、こちらは私にとっては待ち遠しいものです。しかしながら、全くプレッシャーが無いわけではありません。やはりそこにはそこにしか無い難しさがあったりします。



先週の心の重さからは比べ物にならない軽さの中で、今日は今日でそのプレッシャーに押しつぶされそうになりました。きっと、この撮影が連続で続いていると、あとのプレッシャーを感じている時間はあまりなく、こんなに重くならないだろうなあ、と考えたことがそのきっかけでした。



心に大きな悩みがあるときは、小さな悩みはさほど気になりません。しかし、大きな悩みが無いときはその小さな悩みに心を奪われてしまいます。完全に悟りを開けると、一切の悩みを感じないのかも知れませんが、大きな悩みが消えていくということは、小さな悩みに苦しむことにもなりえます。



人生を揺るがすような大きな悩みはそうそう頻繁には現れません。しかし、明日雨が降るかも、とか挨拶したのに返してくれなかったらどうしよう、とかそんな悩みは耐えることがありません。



そして、そんな悩みに苦しむようになってしまえば、それこそ日常生活を送れなくなるかも知れません。



悟りとはそれくらいの危険をはらむものであるからこそ、そう簡単には開けないものかも知れません。逆の意味ではその力を備えていないので、悟らずに生かせてもらえる、そんな風に思います。



人生は与えられているものになかなかきづけないものです。悟りなどというものはやはり私達とは無塩のものかも知れませんが、悟れないから苦しいのではなく、悟れないから苦しまなくて住む部分も多くあることに少し気づけた気がします。