塾でのよくあった会話





「センセー、この問題の解き方教えて!」


「よっしゃあ、一次関数てのはなあ、まず何故こんな考え方ができたのか…」


「センセー、ええから解き方だけ教えて、」


「だからな、一次関数そのものがわかればどの問題もカンタンにとけんねんぞ!」


「センセー、そんなんええから解き方だけ教えて、」


「かめへんけど、ちょっとひねられたらわからんやろ、試験の時は出題者もアホちゃうから絶対ひねってくるで」


「大丈夫大丈夫、俺本番強いから~」





そして、試験結果が返ってきていつもの如く、


「センセー、なんであの時ちゃんと教えてくれへんかったん!」





私の塾は生徒の自主性を尊重していたので、本人がやると言わなかったら無理にさせませんでした。


上記の生徒は残念ながら私の手を離れるまで同じ繰り返しでした。


だからといって無理やりやらせても、やらせ続けなければやらない人間になってしまいます。


人間の成長には時間がかかるものです。


自分で気づかないと何も進みません。








新約聖書は多くの喩え話で構成されていますが、どれも難解なものばかりです。結局何が言いたいのか、解りかねるものも多くあります。お釈迦様もわざと有りもしないものを探させたり、これまた難解なものが多かったりします。我が友ビシバシ君は悩みの相談を受けると、そのテーマに関する書籍を3冊読むことを勧め、質問はその後に答えるようにしているようです。さかいハッタツ3冊ルールは私達の定番です。





昨日の話にも重なりますが、答えは自分で出さないと何も変わりません。教えられた答えが意味がないのは私の教え子の例でもお分かりいただけるでしょう。





日本の教育は知識偏重とよく言われますが、知識はただ答えの暗記に過ぎません。なぜその解が真であるのかを知らずして、ほとんど意味はありません。残念ながら私の周りにも事の本質を知ろうとしない人がほとんどです。





イエスも釈迦も難しい喩え話が多いのは、きっとそんなことから本質をただ言葉にしても意味がないことを悟っていたのでしょう。結局人は悩まずして成長しません。なので、時には更に悩みが深まる言葉を選んだのだと思われます。





私はブログで彼ら2人とソクラテスなどの例えを多用しますが、実はほとんど彼らの書に触れていません。少し本質を知ることで彼らが何を言わんとするかのなんとなく解るように思います。





では、私自信が悩みの中から本質をどのように見つけているのか、今日はお話します。





私は数年前に野宿旅で2週間歩き続けました。来る日も来る日も重い荷物を何度も捨てたくなりながら歩き続けました。半ば人生を捨てた世捨て人になる覚悟を持って、それまでの自分の生き方についてずっとずっと考えながら歩きました。道を尋ねるときに言葉をかわす程度で、誰とも会話しない日も多くありました。昼に悩んだことがテントの中でひらめいたり、夜に悩んだことが次の日の陽炎のもやもやにつられて浮かんできたり、だんだんと自分で答が出せるようになりました。





2週間歩き続けて、それまでの自分の生き方への対策が見えました。このまま歩き続けるのも悪くありません。しかし、もっと厳しい修行がしたくなりました。そう思えたのでもう一度元の生活に戻る覚悟を持ちました。





その後は生きている世界が違うことに簡単に気づけました。同じ物事への見え方が全く変わっていました。その後にも幾度も悩む経験がありましたが、自分の中で答が出せる自信があったので、しっかり悩んで一つ一つ解を得ていきました。





問答とは不思議なものです。自分の中で問が生まれた段階で答も存在するのだそうです。野宿の後に得た解は、その時点で問える力が私にはなかったので解けなかったのは仕方ありません。





この話をした時に、「私にはそんな時間はありません」と多く返ってきます。別に同じ経験をしろ、など一言も言ったことはありません。ただ、私は自分のために自分に向きあう時間を自分自身で作れたからこそ、解を得る力を手に入れられたのだと思います。





自分と向き合う、これを言い換えると自分から逃げない、そして自分を受け入れる、と表現できると思います。他人や書籍に答を求めている段階では悩みが晴れることはないでしょう。自分の心は自分で鍛えない限り力はつきません。自分の答を得るために他人の言葉や書籍を利用すれば良いのだと思います。





そして、鍛えるのにはきっと時間がかかるのだと思います。今日で何かが変わる、などというのはこれまで鍛えてきた人が経験することだと思います。





本当に悩みを解きたければ、自分と向き合い自分と語り合い自分の答を見つける、これが最も手っ取り早い、私にとっては唯一の方法だと信じています。