この最近、自分の衝動性が低くなっていることや、友人の相談事で時間が割かれてしまうことなどを述べましたが、ここからまた自分を知ることができました。
昨年の私は発達障害者の希望となることを自分の目標にしていたように思います。多くの仲間が慕ってくれて同じ悩みを共感できる私にとっての居場所ができました。そんな中で彼らをリードして行きたいという思いが強くなっていたようです。期待してくれている人も多いと思います。このブログの反響はその現れだと思います。
過集中や衝動性を全面に打ち出し、注意欠陥にも明るく振る舞うことで「発達特性=個性」というメッセージを無意識ながら打ち出していたように思います。確かに昨年は人生で最も充実した楽しい1年でした。それが今年になって治まってきているのです。
実はよく似た経験をすーじーくんとして過去にしていました。道化デビュー時は楽しくて楽しくて呼ばれもしないところに押し売るように出番を作っていましたが、半年も持たずに、楽しくない訳ではないが変な落ち着きがでて、無理矢理にでも、というガッツが消えてしまいました。それを師に相談したところ、「道化のキャラクターもどんどん成長した変わっていくものですよ、きっとはしゃぎたいすーじーくんの気持ちが満たされて大人のすーじーくんに成長しているんじゃないですか?」とアドバイスを頂きました。
現在の私は道化の経験をそのまま焼き回しているのかもしれません。
そして、なりたい自分を演じるのは、なれていない証拠でもあります。お芝居の下手な役者は老人を演じるときにわざと身体を弱ったふうに見せたり、腰を屈ませて歩いたりと、老人らしさを強調します。実際のご老人の多くは年寄り扱いされたくなかったり、そもそも腰を屈める必要がなかったり、ある意味では老人らしさをできるだけ見せずに生活しようとしています。
上記のことを鑑みて、昨年の私は発達障害者を演じている大根さんだったのかも知れません。そして、自分を出し切って1年間やり通したことで、心が満たされ、不必要に演じる部分が無くなったようにも思います。
案外、特性が収まったと思っているのは私だけで、周りの人間にはこれまで以上に変人に映っているのかも知れません。
そして、もう一つ、他人さんの相談に乗ってしまうのも心の裏返しのように感じています。悩みは人を成長させるものです。自分で気づけて身につくものです。安易なアドバイスは一時的に悩みから解放させるだけで、その後の深い壷にはめかねません。なので、黙って見守ることが良いのだと解っているものの、ついつい手を差し伸べてしまう。答えから言って自分の弱さだと解ってはいるが、でも見逃せない。
これも、演じていた自分と同じなんですね、きっと。悩んでいる人と自分をついつい同一視してしまうので放っておけない、つまり救って欲しい気持ちが私にもあるから共感してしまう。自他分離ができていないわけです。
本当に優しい人は自分の優しさをアピールしません。どうにもならないくらいに追い詰められたときに、その存在に気づくのだと思います。優しさを演じる人は優しい自分に気づいて貰いたい大根役者です。自分の質の低さに大笑いしてしまいます。
まあ、アホな自分に気づけたら次の目標が見えてきます。日々精進、今日も1日、自分の命をもやせきります。

昨年の私は発達障害者の希望となることを自分の目標にしていたように思います。多くの仲間が慕ってくれて同じ悩みを共感できる私にとっての居場所ができました。そんな中で彼らをリードして行きたいという思いが強くなっていたようです。期待してくれている人も多いと思います。このブログの反響はその現れだと思います。
過集中や衝動性を全面に打ち出し、注意欠陥にも明るく振る舞うことで「発達特性=個性」というメッセージを無意識ながら打ち出していたように思います。確かに昨年は人生で最も充実した楽しい1年でした。それが今年になって治まってきているのです。
実はよく似た経験をすーじーくんとして過去にしていました。道化デビュー時は楽しくて楽しくて呼ばれもしないところに押し売るように出番を作っていましたが、半年も持たずに、楽しくない訳ではないが変な落ち着きがでて、無理矢理にでも、というガッツが消えてしまいました。それを師に相談したところ、「道化のキャラクターもどんどん成長した変わっていくものですよ、きっとはしゃぎたいすーじーくんの気持ちが満たされて大人のすーじーくんに成長しているんじゃないですか?」とアドバイスを頂きました。
現在の私は道化の経験をそのまま焼き回しているのかもしれません。
そして、なりたい自分を演じるのは、なれていない証拠でもあります。お芝居の下手な役者は老人を演じるときにわざと身体を弱ったふうに見せたり、腰を屈ませて歩いたりと、老人らしさを強調します。実際のご老人の多くは年寄り扱いされたくなかったり、そもそも腰を屈める必要がなかったり、ある意味では老人らしさをできるだけ見せずに生活しようとしています。
上記のことを鑑みて、昨年の私は発達障害者を演じている大根さんだったのかも知れません。そして、自分を出し切って1年間やり通したことで、心が満たされ、不必要に演じる部分が無くなったようにも思います。
案外、特性が収まったと思っているのは私だけで、周りの人間にはこれまで以上に変人に映っているのかも知れません。
そして、もう一つ、他人さんの相談に乗ってしまうのも心の裏返しのように感じています。悩みは人を成長させるものです。自分で気づけて身につくものです。安易なアドバイスは一時的に悩みから解放させるだけで、その後の深い壷にはめかねません。なので、黙って見守ることが良いのだと解っているものの、ついつい手を差し伸べてしまう。答えから言って自分の弱さだと解ってはいるが、でも見逃せない。
これも、演じていた自分と同じなんですね、きっと。悩んでいる人と自分をついつい同一視してしまうので放っておけない、つまり救って欲しい気持ちが私にもあるから共感してしまう。自他分離ができていないわけです。
本当に優しい人は自分の優しさをアピールしません。どうにもならないくらいに追い詰められたときに、その存在に気づくのだと思います。優しさを演じる人は優しい自分に気づいて貰いたい大根役者です。自分の質の低さに大笑いしてしまいます。
まあ、アホな自分に気づけたら次の目標が見えてきます。日々精進、今日も1日、自分の命をもやせきります。