この最近の打ち込めない病について何度もお話ししましたが、結論が見えてきたようです。
私のブログを見て打ち込めない私にアドバイスをくれた方もいますが、ここ最近の私は打ち込まない感覚に慣れようとして、ある意味での違和感を楽しんでいました。
昨年の春から秋にかけては楽器やスポーツやその他諸々、レギュラーのNPO活動も含めて身体の頭も使いまくっていました。今年は全く使っていないのではなく、程良さという違和感がありました。これまでに決して経験していないものです。それが、何か物足りないと言うか、自分らしくないというか、そんなところで悶々としていたわけです。
結果から言えば、多動が収まってきているといえます。大人の場合は多活動というあらわれ方が多いのですが、これが完全に収束しています。
多活動自体はそう悪くないのですが、調子の波の良いときにたくさん始めて、波が落ちてきたときに重荷になってしまうことがよくあります。その意味では程良さを知れると楽になります。
何故、多動性が収まってきたのか?これははっきりした答えは解りませんが、精神が安定したことや、冬鬱での落ち込みが無かったこと、そして昨年散々やりすぎて満足できたことなどが考えられます。また、身体のケアで原始反射の統合が結果的に進んだのかもしれません。
取り合えずば、自分らしくない自分になりつつある中に、真のアイデンティティをどう見つけるかが今の課題です。そして、多動が収まってきたと言っても、いつ反動が来るかわかりません。それにも備えつつ、今までにない春を楽しみたいと考えています。

私のブログを見て打ち込めない私にアドバイスをくれた方もいますが、ここ最近の私は打ち込まない感覚に慣れようとして、ある意味での違和感を楽しんでいました。
昨年の春から秋にかけては楽器やスポーツやその他諸々、レギュラーのNPO活動も含めて身体の頭も使いまくっていました。今年は全く使っていないのではなく、程良さという違和感がありました。これまでに決して経験していないものです。それが、何か物足りないと言うか、自分らしくないというか、そんなところで悶々としていたわけです。
結果から言えば、多動が収まってきているといえます。大人の場合は多活動というあらわれ方が多いのですが、これが完全に収束しています。
多活動自体はそう悪くないのですが、調子の波の良いときにたくさん始めて、波が落ちてきたときに重荷になってしまうことがよくあります。その意味では程良さを知れると楽になります。
何故、多動性が収まってきたのか?これははっきりした答えは解りませんが、精神が安定したことや、冬鬱での落ち込みが無かったこと、そして昨年散々やりすぎて満足できたことなどが考えられます。また、身体のケアで原始反射の統合が結果的に進んだのかもしれません。
取り合えずば、自分らしくない自分になりつつある中に、真のアイデンティティをどう見つけるかが今の課題です。そして、多動が収まってきたと言っても、いつ反動が来るかわかりません。それにも備えつつ、今までにない春を楽しみたいと考えています。