警察官の人を最初から疑ってみるような目は大嫌いです。人間が萎縮してしまいます。でも、疑ってみることは大切だと思います。
私が疑うのは人間性ではなく、世の中の当たり前といった物や常識という考え方です。もしくは、社会一般で正しいとされている物も疑ってしまいます。振り返ればニュートンやアインシュタインも私たちが当たり前に受け入れている物に疑問を持ったからそれまでの物理学を大きく進展させたし、ソクラテスやプラトンも世の中の全てに疑問を抱いて人間という物を説こうとしたのでしょう。
科学、哲学は疑うことから始まるのではないでしょうか?
そう言えば論文を切り貼りしてでっち上げたとされる美人研究家は「絶対に○○細胞は存在します。」と会見で言い切っていましたが、その疑いのない言葉を聞いて不信感を抱いたのは私だけでしょうか?存在を否定できないという表現が最も科学者らしい表現に思いますし、思いを込めても存在を信じているという表現以上の物がどうすればできるのか不思議でした。
さて、疑ってみることは学ぶことにとってもっとも大事なものだと述べましたが、良いことばかりではないようです。私のこのような考え方は時に人を惑わせます。時にではなく頻繁に、と表現した方が正解かもしれません。それまでと真逆の発言と受け取られたりする事が良くあります。それまで一生懸命だったことを突然辞めてしまったこともたくさんありました。ネットでほぼ名指しで中傷されたこともあります。
確かに周りを振り回している側面は否定できません。できる限り経緯を説明することで理解を得ようとしてきましたが思うようにいかないことが圧倒的でした。私に理解を示してくれる人は頭の回転が速すぎて周りがついていけないのだといつも忠告してくれます。解っているつもりですが、やはり自分の心に嘘はつけません。
このところはこういったトラブルは当たり前なのでそういう話もしなくなってしまいましたが…
私にとっては上手い世渡りよりも本質を極めることの方が楽しく感じるようです。
私が疑うのは人間性ではなく、世の中の当たり前といった物や常識という考え方です。もしくは、社会一般で正しいとされている物も疑ってしまいます。振り返ればニュートンやアインシュタインも私たちが当たり前に受け入れている物に疑問を持ったからそれまでの物理学を大きく進展させたし、ソクラテスやプラトンも世の中の全てに疑問を抱いて人間という物を説こうとしたのでしょう。
科学、哲学は疑うことから始まるのではないでしょうか?
そう言えば論文を切り貼りしてでっち上げたとされる美人研究家は「絶対に○○細胞は存在します。」と会見で言い切っていましたが、その疑いのない言葉を聞いて不信感を抱いたのは私だけでしょうか?存在を否定できないという表現が最も科学者らしい表現に思いますし、思いを込めても存在を信じているという表現以上の物がどうすればできるのか不思議でした。
さて、疑ってみることは学ぶことにとってもっとも大事なものだと述べましたが、良いことばかりではないようです。私のこのような考え方は時に人を惑わせます。時にではなく頻繁に、と表現した方が正解かもしれません。それまでと真逆の発言と受け取られたりする事が良くあります。それまで一生懸命だったことを突然辞めてしまったこともたくさんありました。ネットでほぼ名指しで中傷されたこともあります。
確かに周りを振り回している側面は否定できません。できる限り経緯を説明することで理解を得ようとしてきましたが思うようにいかないことが圧倒的でした。私に理解を示してくれる人は頭の回転が速すぎて周りがついていけないのだといつも忠告してくれます。解っているつもりですが、やはり自分の心に嘘はつけません。
このところはこういったトラブルは当たり前なのでそういう話もしなくなってしまいましたが…
私にとっては上手い世渡りよりも本質を極めることの方が楽しく感じるようです。