過去を振り返って考えてみると、私自身かなり豪腕だった様にも思います。曲がらないものを必死に曲げていたように思います。きっと多くの物を無理矢理ねじ曲げて来たのでしょう。そのことで得意気になっていたこともありましたが、それだけ反感を買っていた様にも思います。曲がらないことで心に不満を募らせ続けたのかも知れません。
最近は曲がらないものを曲げようとは思わなくなってきました。と言うより、曲がる曲がらないという概念が消えつつあるように思います。できる限り周りを受け入れるようになったと思います。そして周りのものの見え方が大きく変わってきた様に思います。
人に嫌われることや人を嫌うことは最低な行為だとこれまで思っていましたが、この両方を受け入れるようになって嫌われることの恐怖と嫌うことの愚かさが感じられるようになりました。このように考えていくと殆どの感情が昇華され、自分の存在が消えていくようにさえ感じてしまいます。
小説「氷点」の中で、人間の行いは全て罪を持っていると牧師は諭しています。石を持ち上げただけでも虫や微生物などの多くの生命が失われる、と。このたとえがようやく私の中で理解の範囲に入ってきたようです。
ここからの深い話は割愛して、人に嫌われることも私を認めていること、人を嫌うことは心のエネルギーを感じさせてもらえること、と理解できるようになりました。嫌悪という感情さえも私に与えてくれるものがあるようです。
結論として、曲がらんものを曲げたくなる気持ちこそが人間の存在の証明であり、それ故に苦しまないといけないのかも知れません。