甲子園の遅球問題と横浜のバナナ差別問題、あなたにはどのように感じられますか?

この問題は同列に扱うべきでしょうか?

私には明確な答えがあります。それは行動を仕掛けた者の心に人を蔑む気持ちがあるか?の1点です。バナナをかざしたサポーターに差別意識が無かったと言えるでしょうか?甲子園を沸かせたスローボールに敵を蔑む心があったでしょうか?根拠となるものを見ずに行動だけで判断する事は危険ではないでしょうか?

道化の心を持つ私たちは日常からよくふざけます。真面目にふざけます。本気でふざけます。一方でふざけて全く言うことを聞かない子供や人に迷惑をかけてふざけるものもいます。これらの「ふざけ」も同列に扱えるのでしょうか?

道化師がふざけるのは周りを明るくしたいからです。自分自身の心を開いて敢えて恥ずかしいことに挑戦します。他方の彼らは自分の恥ずかしさを隠し、テレ隠しのだだっ子になるのでは?これらの行動を同じ言葉で表現してしまう日本語はやはり個性を認めない文化を象徴していると言えませんか?

遅球問題で「世の中をナメた大人になりそう。」と発言した言葉のプロがいましたね。その言葉自体が差別的とも言えますが、心理学的に解いてみると彼自身の心に世の中をナメた部分があり例の投手の行動が彼の心に干渉したと考えるのが一般的だと言えます。つまり、日常から、周りに自分の「世の中をナメた」気持ちが悟られないように注意深く行動していた彼にとってあの投球は許し難いものだったのでしょう。人を罵った言葉が己の心を透かせたと言えます。

話しがずいぶん反れましたが、道化の素晴らしさ、少しは理解していただけましたか?これからも大真面目におおふざけしますのでよろしく!