人は美しい物に惹かれる。美しい景色、美しい技、美しい音色、美しい人、美しい生き方…。心が和み、心が澄み、心が躍る。この世が全て美しい物であれば…と願ってしまう。

実際にそうだろうか?今朝私は気づきました。美しくない物があるから美しい物が存在することを。正という概念は負という概念とともに成立する相対的なもの、美という概念も絶対的な物ではありません。比較対象があり美しさが相対的に感じられるのです。全てが美しければ基準がシフトし、そのおよそ半数が美しくなく感じられてしまうのでしょう。

美しさを知ると言うことは、言い換えれば美しくない物の認知であるといえるでしょう。美しくない存在があるからこそ、美しいと思えるのです。その意味では美しくないものにも存在する意味はあります。だから私は美しくないものを侮ってはいけないと感じました。

美意識の強い人は、こだわりの強さから排他的になりがちです。物事を極めた人にも多く見られることです。しかしそれらの拘りでさえ、多くの彼らの美意識からはずれた多くの存在があるからこそなのです。それらを侮ることは自らのエリート意識を満足させるだけで、私からみると全く美しくない考え方です。

自分にとって美しくないと思える物を受け入れることの重要性が広い視野を持たせてくれるような気がします。

実のところ、私は人一倍美意識が強いようで、反面それが私の感性を研ぎ澄まさせているのだと思います。そこに独りよがりになっている自分の存在を見ることが自分自信怖かったところもあります。

正が大きければ、負も同じだけ大きい。人としてのあり方をもう一度根底から考え直す良い機会かも知れません。



Android携帯からの投稿