私が交渉術というものに興味を持ったのはラジオ番組制作を始めた頃でした。ディレクターやエンジニアとして番組に関わる中で、プロデューサーの交渉力にいつも感心していました。と言っても、あまりポジティブに捉えてはいませんでしたが…

番組では問題が起こらなかったときの方が稀で、常に何かの問題が起こっていました。対放送局、対スポンサー、対ゲスト、時には対レギュラー、特に改偏が迫る時期には日に日に状況が変わる中、これはもうだめか!と思える事態をプロデューサーたちはうまく乗り切るのでした。時にはごり押しのようなことさえやってのけることも…。

ここで私は価値観の多様性を学びました。クリエイティブな現場ですから、それ相応の幅広い価値観の元で様々な交渉ごとをまとめていたようです。

その後、様々な番組企画に携わった私は外国語の必要性を感じ、勉強する中で更に価値観の多様性を学ぶことができました。

日本人は昔から交渉下手だと言われてきましたが、己の価値観とかけ離れた人と出会う機会が少なかったので、仕方ないかも知れません。アメリカのように多種多様な人種が存在する国や、イギリス、スペインのように世界に植民地を持つような国は、様々な価値観のすれ違いから学ぶ機会が多かったのでしょう。

価値観の多様化~というと、言った者勝ちのように受け取る日本人が多いかも知れませんが決してそうではありません。朴大統領の半日外交は世界中の失笑を招いているように、何でもかんでも個人の価値観で交渉を進めると誰からも相手されなくなります。

では、交渉とはどのように進められるのか?

答えは簡単です。双方による合意が基本です。合意に至る駆け引きも交渉と呼べますが、その話は機を改めます。あなたも私も可である、つまり価値観の重なることのみを確認し会うことです。

しかし、世の中の交渉の多くは上記のように進みません。そこで重要になってくるのが客観性です。物事の本来あるべき姿を議論に持ち出すことで、価値観を分かち合うと言うことです。これはある種の哲学のぶつかり合いのようなものです。

キリスト教徒とイスラム教徒が宗教観を議論しても相容れることは難しいです。こんな時に基本的人権という概念は交渉を進める有効な手段となるでしょう。

同様な手段として、法の精神や科学的根拠という物があげられるでしょう。

行き詰まるところ、このような手段を用いてあるべき物をあるべき姿に戻すことが交渉と言えるのかも知れません。これらを学んで、私自身は人の横暴に振り回されなくなりました。ただ、気をつけておかなければならないのは、あるべき姿以上に自分に有利にすると社会の信頼を失うことです。その意味で交渉術は諸刃の剣です。他者を傷めることは己を傷つけることです。

そうでなくても、私を陥れようとして失敗した人たちが、腹いせのように私を非難するようなことさえありましたから。




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