commitment:関わる、入れ込む、この様に訳されることが多い言葉ですが、英語を学ぶ中で興味深いことを知りました。

本来は神のみがcommitmentを行うべきで、人がするものでないとされていたようです。この言葉は今の私に大きく響いています。

これまでご愛読いただいている皆さんはご存じのように、この国の狭い価値観が私たちのようなマイノリティを社会に押しやることにこのブログを通して反発してきました。ある意味で私への他社からのcommitmentを拒否し続けてきたわけです。

自分自身の生き方は自分自身で決めるものであり、人からcommitmentされるものではないというのが根底にある考え方です。私なりに社会と戦い、自分らしいライフスタイルはある程度手に入れつつあります。そして現在は自分と同じように苦しむ人の支えになれるようにと、積極的に発信するようになってきました。

しかし、考えてみればこれ自体がcommitmentでもあるわけです。私なりの善意のつもりですが、commitmentに他なりません。また、様々な例を挙げ、私たちを窮屈にさせる人たちへの非難ともとれる記事も掲載しました。これも広い意味ではcommitmentだと言えるでしょう。

人は己が満たされていれば、心が自己完結し、人に必要以上に関わろうとしません。例えば、オリンピックのメダリストは多くの場合無理に見せびらかしたりしません。他方少しのことでも自慢したがる人は、日頃から心が満たされていない証拠です。

同様に他人の批判なども、己の心が満たされていない現れでもあります。私も自身の心に満たされない部分があることを示しているわけです。

かといって、無理やり満たすこともできないので、己を客観視しこれからを見つめ直すしかできません。

もう一度自分の生き方を考える良いキッカケだと捉えようと思います。




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