和歌の浦、雑賀崎は旅の目的地の一つ、
歴史の中でほぼ唯一といっていいと思う『鈴木』というせいが現れる
『鈴木孫一』が率いる雑賀衆の本拠地でした。
詳しくはウィキペディアで、
時は戦国、種子島に伝わった鉄砲はそれまでの守護、大名たちの勢力図を大きく変えたことは
ほとんどの日本人が知るところでしょう。
そしてその中心人物はやはり織田信長。
鉄砲で直馳せた信長だったが、
その信長を鉄砲の数で威圧し続けたのが、雑賀衆雑賀孫市こと鈴木孫一でした。
ただ、まだまだ不明な点が多く、そして人生の後半を雑賀崎から遠く離れた
水戸で過ごし、没後も奇襲に墓を作れず、大和に地に眠るとされています。
現在は鈴木孫一に関する遺産はほとんどないようですが、
その地を歩き少しでも彼と同じ空気を吸い同じ景色を見てみたいと考え、
私は雑賀崎を目指しました。
昨日の漁港で雑賀崎への道筋を聞くと、
歩いて行くのなら漁村の中の道を使うといいと教えてくださいました。
教えられたとおりの道を進むと、道幅が一見程度の、
細い場所では両手を伸ばせば当羨望できるほどの、
しかし、漁民たちの生活観が溢れる風情のある道に出ました。
写真はその途中のお店、
その道は山の上のほうに向かって伸び、
終点には車が通れる道路がありました。
その道路を左に曲がって一本道、
そう聞いていた私はその後かなり歩いたが
ようやく雑賀崎灯台に到着(写真は先ほどのもの)
この灯台に登り、見渡すと視界全てが海、
18ミリレンズでも多分取れないほど、
魚眼レンズがいるって言うほど右から左までぜーんぶ海、
以下に写真をあげますが、その本の一部分と切り取ったに過ぎません。
何日も沖に出たまま漁をするスタイルを長年行ってきたと
ムツゴロウさんの本で読んだことがあったが、
この吸い込まれそうな海を見ていると、
彼らが海を通して遠い地にまで目を向けていたことに納得、
きっと、雑賀船の一隻がまだ種子島にたどり着いたばかりの鉄砲を
どうにか手に入れ、いち早く持ち帰ったのではないかといわれる説を
十分に理解できる風景でした。
土佐の海から世界に目を向けていた阪本竜馬は
鈴木孫一の生まれ変わり出なかったかとさえ思えてきます。
こうして、雑賀先を攻略した私は次なる目的地、海南に向けて歩き出すのでした。
しかしまだ時間は正午にもなっておらず、
その前にもう一箇所訪問したいところに
向かうことにしました。
ここ和歌浦あたりは、数々の和歌にも読まれた景勝地、
和歌に詠まれたから和歌浦なのか和歌浦を詠んだから和歌なのか
数々の絶景を横目にまた全身に汗する私でした。
最後にその絶景の一部をどうぞ、