旅のエピソードばかりでなく、
違った角度でお話したいと思います。
修行であった私の野宿旅ですが、
当初は重い荷物を持って1人で旅する『苦行』だと考え
旅立ちました。
しかし、途中でそうではないことに気づきました。
自分自身に向き合うという経験こそが修行だと気づかされたのです。
歩いている間は常に1人です。
ひどいときはまっすぐの一本道を1時間以上、
同じ景色を見て歩きました。
誰とも会話せずに終えた日もあります。
そんな時、きっと人は考えるしかない、のかもしれません。
何故人は生きるのか?
何故人は存在するのか?
何故地球はあるのか?
何故悲しみを感じるのか?
怒りとはいったいどこから来るのか?
といった概念的なことから、
何故あの人は私を嫌うのだろう?
日本の社会は個性を認めないのは何故?
どうしたらもっと気に入られるのだろう?
などの個人的なことや下心的なものまで、
時には半日ほど同じことを考えたりしました。
そして、その一つ一つに様々な角度が見え出し、
やがて、自分が悩んでいたこと自体を考えるようにんる…
その繰り返しでした。
旅の終わりごろに気づいたのですが、
禅という物に非常に近いと思います。
禅は問うこと自体が答えなのだそうですが、
その意味が少しずつ理解できてきたように感じます。
そして、禅というものができる以前に
日本全国や中国を旅した空海が密教にたどり着いたことも
なんとなく理解できる気がします。
禅も密教も瞑想も、
結局は自分と向き合い、
自分の中から答えを出してくるもの
ローカルPC的発想の禅と
クラウド型の密教のように
考え方が違うだけで、
私には非常に近く感じられました。
そんな経験から
曼陀羅思想を肯定するようになりました。
ただ、私の曼陀羅思想は人の意識がつながっているというより、
DNAの中に存在するものだと理解しているのですが…
こうして、自分と向き合うこと自体が修行であると気づいたことにより、
私の旅は一旦終わりを迎えました。
なぜなら、この修行は野宿旅でなくてもできるわけですから。
というよりも、人と触れ合う社会の中でこそ、
この修行が必要だと感じたからです。
そしてまた自分に限界を感じたとき、
休憩がてらこの旅の続きをしよう。
そう思っています。
そうです、私にとっての野宿旅は
苦行で無く休憩となったのです。