【第12代 景行天皇】
推定治世期 西暦266年~295年
(西暦71年~西暦130年:記紀の記載そのままの場合)
※ルビについてですが、今後地名にはひらがなで、人名についてはカタカナで表記するように統一します。
九州親征を前に、自ら大和朝廷に恭順を申し出た女性首長・神夏磯媛(カムナツソヒメ)
さて景行天皇12年9月5日に、周芳(すわ)の国の娑麼(さば)(山口県佐波)に、天皇は着きました。
現在では山口県の防府市に佐波という地名があるので、このあたりのことでしょう。
防府市役所の少し北辺りのようです。
今はここよりもっと先に海岸線がありますが、当時はこのあたりだったのでしょうね。
ここに親征軍の拠点を置いたのでしょう。
そしてここから南方を眺めて、天皇は言いました。
「南の方に煙が多くたっている。きっと賊がいるのだろう」
それを受けて天皇は、そこに多臣の祖の武諸木(タケモロキ)、国前臣(クニサキノオミ)の祖の菟名手(ウナテ)、物部君(モノノベノキミ)の祖の夏花(ナツハナ)を使者として派遣します。
そこは神夏磯媛(カムナツソヒメ)という名の、一国を治める女性首長がいました。
「手下は非常に多く」と記載されているので、それなりの勢力を持っている事が伺えます。
恐らくは邪馬台国を構成していた一国だったのでしょう。
神夏磯媛の正体は、卑弥呼の後継者、壱与だったのか?
神夏磯媛の年齢は記載されておらず、その後の記述がないので、その後どうなったのかは分かりません。
ただ名前に「神」とある事から、一国の長であることに加え、神聖な地位を持っていたことが想像されます。
そうなると、神夏磯媛の正体は、卑弥呼の後継者だった可能性が考えられます。
エピソード3で言いましたが、景行天皇の九州親征は、卑弥呼がいたとされる年代より30年ほど後です。
だから神夏磯媛の正体が卑弥呼の後を継いだと魏志に書かれていた、壱与だったのかもしれません。
名前が違うという意見は出そうですが、そもそも魏志に記載されていた『卑弥呼』、そして『壱与』が本名だった証拠もないので、『壱与』の本名が、『夏磯』だったのかもしれません。
(名前の頭に付く『神』は、恐らく尊号)
『壱与』と『神夏磯媛』が同一人物だとすると、魏志の記載からこの時神夏磯媛は、40代半ばだったという事になりますね。
そうでなかったならば、神夏磯媛は『壱与』の後継者だったのかもしれません。
ここで初めて登場する三種の神器と、一弱小国家の長がそれを持って恭順に現れた謎
そういう推論をするもう一つの理由は、神夏磯媛が景行天皇に立てた使者の儀礼の形式です。
神夏磯媛は使者を乗せた船の舳先に、このような事をしているのです。
天皇の使者がやってきたことを聞いて、磯津山(しつやま)の賢木(さかき)を抜きとり、上の枝に八握剣(やつかのつるぎ)をかけ、中枝に八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、下枝に八尺瓊(やさかのに)をかけ、白旗を舟の舳先に立ててやってきた。
これ、皇室の三種の神器とほとんど同じです。
剣と鏡、そして瓊(に)とは「美しい玉」を意味しますので、勾玉だったと考えられるでしょう。
八尺の瓊といっていますから、数珠つなぎでネックレスのようにしたものでしょう。
また舟の舳先に白旗を立てたというのは、恭順ないし降伏を意味するサインでしょう。
今とさほど変わらない降伏の形式(少なくとも敵対の意思なしを表す)が、既にこの時に出来ていたという事ですね。
ここで不思議に感じる方も、いらっしゃると思います。
なぜ大和朝廷とは別組織の、それもさほど力を持っていると思えない勢力の長が、三種の神器とそっくりな祭礼器を持っていたのかと。
その謎を解くために、次のエピソードでは神武天皇の時代のエピソードにいったん戻ります。