大和朝廷の始まりとは25~魏に大和朝廷の存在を隠ぺいしていた邪馬台国と景行天皇を見誤った熊襲 | 朱雀ひのでのブログ

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【第12代 景行天皇】

推定治世期 西暦266年~295年

(西暦71年~西暦130年:記紀の記載そのままの場合)

 

 

それまで版図の治世に力を注いできた大和朝廷が、唐突に九州親征に踏み切った謎に潜む、記紀における九州情勢の不記載と、魏志倭人伝での大和朝廷不記載の奇異さ

 

さて私は「大和朝廷と邪馬台国は対立関係にあった」と見ていると、前回記事で言いました。

それについて、唐突に感じた方も、いらっしゃるでしょう。

その辺の説明が舌足らずだったとも感じているので、その辺はお詫びします。

 

それはそもそも景行天皇が九州親征を行う口実が、「熊襲が貢物を奉らなかった」事が発端なのですが、それまでに熊襲が大和朝廷に貢物を奉っていたこと自体、何の前触れもなく、突然日本書紀に書かれているのです。

 

「熊襲が貢物を奉らなかった」というのですから、普通は熊襲が大和朝廷に外交使節を派遣し、朝貢関係に入ったと記載がない事が奇異に感じられます。

その位重要な関係ならば、普通は記録されていて然るべき事のはずです。

 

もちろん、当時に記録に残す基準が今よりあいまいで、何を記録し何を残さなくてもいいかの判断で、誤って記載されなかった可能性はあります。

 

ただそう考えると、もっと奇妙な事があります。

熊襲との関係を仮に度外視しても、それまで記載されていないがゆえに、九州親征があまりに唐突で、奇異に感じてしまう事が。

 

その推論の糸口は、日本書紀、古事記に神武天皇の東征以降、景行天皇の時代まで九州がまるで存在していないかのように、ものの見事に触れられていない事が一つ。

 

そしてもう一つが、邪馬台国の存在を記録に残している唯一と言ってもいいシナの歴史書(魏志)には、逆に大和朝廷と明確に言える国の記載がない事です。

 

 

魏志倭人伝には、邪馬台国畿内説を明確に否定する記載があった!

 

記紀など日本の文献では確認できず、シナの歴史書である魏志などでしか存在の記録が残っていない、邪馬台国と卑弥呼。

その一方で、魏志倭人伝には、逆に大和朝廷の存在を直接匂わす記載がありません。

これは非常に不可解に感じます。

 

この辺を探るために、魏志倭人伝の記載を注意深く見ると、こういう記載がありました。

 

『女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これからもすべて倭種の国である』

 

 

これは、多くの歴史学者が意図的に無視しているように思われる記載です。

これを見るだけで、邪馬台国連合の畿内説が否定できるほどです。

 

この魏志倭人伝の記載を見る限り、女王国のすぐ東に海があることになります。

もし邪馬台国畿内説を取るなら、邪馬台国=大和の国となり、その東となると伊勢の国(三重県)、太平洋という事になります。

 

三重県の東から千里(帯方郡から邪馬台国への道程の記載から、50~100km前後とみられる)程度の距離は、海ばかりで、国が築けるような陸地はありません。

 

名古屋に近い北勢・中勢地区から伊勢湾に漕ぎ出して、まっすぐ東に向かうなら愛知県にぶつかりますが、距離が近すぎますので、地理的に辻褄が合いません。そもそも三重県側から対岸の愛知県は、海抜2、30mくらいの高台からでも、眺められる程度の距離でしかありません。

 

今は津の港から、対岸の中部国際空港(セントレア)に向かう高速船では、約45分で行けます。

これは時速30ノット(時速約55km)で運行する船ですが、当時の時代はせいぜい5ノット(時速約9km)程度だったと考えても、4時間半で伊勢湾を渡れたでしょう。

多少手間取ったとしても伊勢湾を横断するのは、朝漕ぎ出せば、昼過ぎには対岸に上陸できる程度でしかなかったのです。

 

その位の距離を「千里」とは言わないでしょう。

朝鮮半島から対馬まで、あるいは対馬から壱岐まで、壱岐から九州までの距離を千里と表現していることからも、明らかです。

 

もう一つ言えば、三重県と愛知県は陸続きですから、『海を渡ること千余里』と表現するのも、妙な話です。

後に紹介しますが、実際に日本武尊は伊勢神宮に参拝後、陸路で愛知県に向かい、静岡方面に向かっていることからも、この時代でも近畿から東海、関東へは陸路で移動することが主流だったと見て良いでしょう。

 

これに対し、北部九州説を取るなら、中国地方なら山口か広島付近、四国地方なら愛媛県あたりとなり、これなら大和朝廷の勢力範囲です。

シリーズ3記事で想定した「女王の都」として、大分県宇佐を起点としています)

そして九州からなら、中国地方も四国も、海を渡らないと行けない場所でもあるので、その点でも記述に不自然な点がありません。

 

しかし魏志倭人伝には、これ以上の記載はありません。

せいぜい以下の位の記載しかないのです。

 

『その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない』

『これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう』

 

ほとんどおとぎ話レベルの記載ですよね。

 

 

邪馬台国は魏に大和朝廷の存在を隠ぺいしていたことが、大和朝廷と対立する原因となった?

 

この辺の記載はそれまでに比べてもあやふやですから、魏の使者がそこまで訪れたのではなく、邪馬台国の役人や住民から聞き取った内容でしょうね。

狗奴国に関する記載に比べてもあやふやな内容ですから、これらとは大和朝廷も含め、魏と国交がなかったことが原因でしょう。

 

この辺を見れば、邪馬台国連合が大和朝廷と魏が手を結ぶことを妨害していたとみるべきです。

そして魏にも、東の国の様子を極力伝えないように情報を遮断していたとみるべきです。

もし大和朝廷の存在を魏に知られたら、『親魏倭王』(卑弥呼が魏から送られた称号)の地位が揺らぐことは確実ですから。

 

もし魏の使者が邪馬台国連合の何倍も大きな国が東にあると知っていたなら、絶対に接触しようとしたはずです。

関東から中国・四国地方まで版図を持つ国家がある事を知って外交関係を持とうとしなかったのは、非常に不自然ですから。

魏が自ら使者を派遣しなくても、大和朝廷の存在を認識していたら、邪馬台国に仲介を求めるでしょうし、それを拒否できるような国力は、邪馬台国になかったはずです。

 

それを考えれば、魏に対する邪馬台国連合の情報隠蔽工作がほぼ完ぺきだったのでしょうし、魏との国交樹立を妨害される格好の大和朝廷と関係が悪くなるのは、自明でしょうね。

 

 

垂仁天皇は邪馬台国に兵を起こす代わりに、熊襲を利用して邪馬台国の弱体化工作をしたのか?

 

それでも垂仁天皇が邪馬台国連合討伐の軍を起こさなかったのは、先代崇神天皇が急拡大させた版図をいかに大和朝廷の下に安定させるかに腐心していたからでしょう。

外征は後回しにして、外交で勢力の強化を目指したと見るべきだと思います。

 

そのため、熊襲(狗奴国?)が臣下の礼を取ってきたので、大和朝廷は熊襲を利用し、南から邪馬台国に圧迫をかけさせた。

熊襲は熊襲で強大な大和朝廷の力を利用し、東から大和朝廷に圧力をかけてもらいながら、機を見て邪馬台国を攻めようとしていた。

 

そんな中、卑弥呼の死をきっかけに揺らいだ邪馬台国を熊襲がだんだんと侵攻し、どんどんと勢力を拡大していった。

 

この頃の倭の様子については、魏志は(さらに継承国の晋の歴史書を含め)沈黙しています。

卑弥呼の後を継いだ壹与は、一度は魏に使いを送ったものの、その後の記載がない辺り、魏との国交が切れたと見ていいでしょう。

 

邪馬台国から魏との国交を切る理由はなかったでしょうから、これは外交使節を送る余裕を失った、つまり国力が大幅に低下して、魏に対して救援の声すら上げられなくなったと見ていいでしょう。

 

恐らくですが、邪馬台国は中枢部地域を熊襲に侵略、制圧され、連合王国は解体、それぞれがバラバラになり、元の国単位でそれぞれが争う状態に戻ったのでしょう。

九州親征のエピソードを取り上げる時に触れますが、その時にはどう見ても連合王国がバラバラになっていたことを示唆する記載があるのです。

 

そして邪馬台国(を構成していた国家群)が、もはや風前の灯火くらいに力が弱まったと見た熊襲は、もはや大和朝廷に頭を下げてまで利用する価値はないと見て、貢物を送らないようにしたと考えると、筋が通ると思います。

 

またこういう謀略的な話は表立ってする話でないことから、記録に残すことを憚らせていたと考えれば、不自然に九州の記載が記紀にないことも筋が通ると思います。

ある意味、欠史八代の業績(恐らく謀略と血みどろの争いのオンパレード)が何も残されていないことに通じると思います。

 

 

垂仁天皇の消極姿勢から、熊襲は大和朝廷を甘く見過ぎた?

 

結果を見るなら、これが致命的な大失敗で、これが景行天皇による親征を招くことになったのです。

国力差を考えるなら、どう見ても悪手ですが、この辺は景行天皇をというか、大和朝廷を甘く見たのでしょうね。

あるいは熊襲は大和朝廷の国力を把握せずに、侮っていたのかもしれません。

 

先代垂仁天皇は、確かに外交重視で外征は行いませんでした。

しかしそれは、国内を安定させないと、反乱を招きかねないから、まず足元を固めることに専念しただけであって、決して外に関心がなかったわけではなかったと見るべきです。

それは、大加羅国(おおからのくに=任那(みまな))との外交関係が垂仁天皇の記録のほぼ冒頭に書かれている事からも、明らかでしょう。

 

そうした政策を50年に渡って行った結果、景行天皇が皇位を引き継いだ時点で、もはや国内は盤石なものとなって、外征を行うだけの国力をつけていたとみるべきです。

その証拠が、九州親征に始まる約7年に渡る外征です。

 

そこを熊襲は見誤ったのです。

垂仁天皇の姿勢を見て、討伐軍を起こすことはないと、高をくくったのでしょうね。

しかし景行天皇は、そうではなかった。

 

軍事には途方もない資金がかかる事は、今のウクライナ戦争などを見れば、皆さん分かるでしょう。

 

それを7年も行えた。

春秋2倍歴で考えても、3年以上となります。

 

景行天皇が即位した時点で、相当な国力が蓄えられていたことは、疑いがありません。

でなければ九州親征や、日本武尊による東征が出来たはずがありませんから。

景行天皇の九州親征から日本武尊の東国遠征まで、30年間断続的に軍事行動を起こしていたのです。

 

確かに熊襲は大和朝廷の国力、そして景行天皇の性格を見誤っていたでしょう。

しかし負けない一定の自信はあったはずです。

そうでなければ、錯覚であるにせよ、大和朝廷に背くという判断をしなかったでしょうから。