大和朝廷の始まりとは24~景行天皇、熊襲の非礼を口実に、九州親征に乗り出す | 朱雀ひのでのブログ

朱雀ひのでのブログ

「朱雀ひので」の、日々徒然に思う事を書き連ねるブログ。世の中に何が起きても、陽(ひ)は毎日昇る。何が起きても陽に向かって前向きにいきたい!と願って…

【これまでのシリーズ記事へのリンク】

 

【第12代 景行天皇】

推定治世期 西暦266年~295年

(西暦71年~西暦130年:記紀の記載そのままの場合)

 

 

臣下の礼を取っていた熊襲が礼を失した事を口実に、九州に親征軍を起こした景行天皇

 

さて父帝垂仁天皇の崩御に伴い即位した景行天皇ですが、景行天皇12年(西暦272年?)に、九州に勢力を拡大していたとみられる熊襲(くまそ)が貢物を贈らなくなったことを口実に、九州に親征することにしました。

 

この事が意味するのは、いくつか考えられます。

 

1.九州の勢力に直接支配はしていないものの、既に大和朝廷の圧力が加わっており、九州の独立勢力も貢物を贈ってご機嫌伺をするほど、上下関係が生じていた

 

2.熊襲が大和朝廷に臣下の礼を取っていたのは、九州において両者に共通の利益があって、その目的達成のため大和朝廷の力を借りるためにそうしていたが、熊襲がその必要が無くなったと思わせる、何かが起きていた

 

3.同時に熊襲は、大和朝廷に対して礼を失しても、討伐してこないと高をくくっていた

 

4.いかに大和朝廷が強大であろうとも、負けない自信があった

 

 

これまでのシリーズ記事をお読みいただいていた方は、1については分かると思います。

 

既に北関東から中国・四国地方にかけて統治していたとみられる大和朝廷を越える勢力は、もはや日本に存在していたはずがありません。

 

いくら九州地方が古くから稲作先進地であり、大陸との交流を深めて様々な産物、技術を得ていたとしても、これだけの勢力圏に差が出ると、九州にあったとみられる邪馬台国連合と熊襲などが大和朝廷に挑んでも勝てない、圧倒的な国力差が生じていたことに疑いありません。

 

その位の国力差が出ると、何か口実を与えれば討伐軍を起こされるのは、日本でも江戸時代初期頃までは普通にあったことです。

徳川家康が、豊臣家に難癖をつけて戦を仕掛けた事は、歴史教科書にも掲載されているほどです。

まして古代ならば、なおさらでしょう。

 

 

熊襲が大和朝廷と袂を分かとうとしたのは、邪馬台国の打倒に成功して、利用価値がないと踏んだから?

 

その位の事、それなりの勢力を持つ長ならば、容易に想像できたはずです。

それなのになぜ、討伐軍を起こされる口実になり得る、貢物を贈らないという非礼を敢えて行ったのか?

 

ここが推論2に当たります。

 

ここで想像されるのは、大和朝廷と熊襲の勢力との間に別の勢力があり、それを傘下に収めようと、両者が圧力をかけていたのではないかという事です。

 

いわば、軍事同盟ですね。

 

これは古代でも、例えば百済を滅ぼすために新羅が、当時のシナ帝国である唐と組んで(唐羅同盟)戦争を起こしたことがあるので、あり得る話です。

 

これには日本も絡んでおり、滅亡に瀕した百済が日本に援助を求め、時の第38代天智天皇が派兵したことがあるので、ご存じの方も多いでしょう。

(正確には母帝である第37代斉明天皇が救援軍を派遣しようとしたが、軍を朝鮮半島まで送る前に崩御したため、即位を後回しにして急遽軍を派遣したものの、斉明天皇崩御の混乱で派兵が遅れ、機を逸したため勝つことが出来ず、撤兵、百済は滅んだ)

 

話を熊襲の事に戻しますが、熊襲と大和朝廷との間に挟まっていた勢力が邪馬台国連合だったと考えれば、納得できます。

 

恐らく卑弥呼を失った後の邪馬台国は、内部で争う事が多く、まとまりを欠いたのでしょう。

実際、魏志の倭人伝では、『卑弥呼亡き後男王を立てたがまとまらず、卑弥呼の宗女である壹与を立てて王とした』というくらいですから、一枚岩ではなく、相当権力争いが起きて、まとまりがなかったことが容易に想像できます。

 

魏志倭人伝の記載を見ても、邪馬台国は30国の連合王国としていますから、その中で権力争いが相当起きていたからこそ、卑弥呼亡き後に継いだ男王に背く勢力により抗争が起き、その様子を魏志「倭人伝」には『互いに殺し合い、このとき千余人が殺された』とあります。

 

これでは戦いを仕掛けられていた狗奴国(記紀で言う、熊襲の事?)の思うつぼでしょう。

いつまでも男王に反抗し続けていれば、狗奴国(熊襲?)によって、各個撃破されれば、いずれ邪馬台国連合は滅ぼされると、良識派は危機感を持ったことでしょう。

実際、狗奴国にどんどんと併呑されていったのでしょうね。

 

だからモラトリアム政権を立てて、内部抗争を止め、それ以上の侵略を食い止める必要があった。

それで白羽の矢が立てられたのが、卑弥呼の一族の、まだ年端も行かない(魏志倭人伝では13歳と記載)少女を神輿として担ぎ上げた。

そういうことでしょう。

 

そして壹与は、卑弥呼に倣って魏に使者を送りましたが、卑弥呼の時と使者の規模はさほど変わっていないようです。

つまりこの時は、まだ魏に使者を送るだけの余力があったと見るべきですから、卑弥呼死後の混乱は、長くて1、2年と見るべきでしょう。

 

 

垂仁天皇は外征よりも内政重視の政策の傍ら、外交、調略には熱心だった?

 

魏志の記載を考えれば、この時が西暦240年ころでしょう。

つまりこの時は、垂仁天皇の時代という事になります。

 

ただこれまで触れてきたとおり、垂仁天皇は外征を行った節がありません。

どちらかと言えば、内政を重んじていた感じです。

 

ただ大加羅の国(任那)との外交が、記紀で初めての外交交渉として記載されています。

シリーズ15記事)

また常世の国に使者を派遣し、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ・橘の事)を求めさせた(シリーズ20記事)とあります。

 

このため、垂仁天皇は武力征伐を起こさなかったものの、外交には熱心であったことは、間違いありません。

 

熊襲が貢物を贈ってくる関係は、垂仁天皇の時代、記紀に記載はないものの、その時代にはそうなっていたと見るべきでしょう。

 

それだけの力を、大和朝廷は卑弥呼の時代に既に持っていたとみるべきです。

 

しかし垂仁天皇の時代の記載では、九州について、まるで存在しないかの如く記載が一切ないのが不可解に感じていましたが、その位北部九州の勢力とは仲が悪く、交流がなく、また征伐するにはまだ侮りがたい力と技術格差があったことが背景にあったかもしれません。

 

垂仁天皇の時代にはまだ大和朝廷が製鉄技術を持っていなかった可能性が高く、それを持つ九州の勢力と渡り合った場合、不覚を取る可能性を危惧していた?

これについては注目記事1800参照。

 

あるいは記紀に記載がない部分で、大和朝廷が小競り合いなどで九州勢力に敗北していた場面があったのかもしれません。

記紀で大和朝廷が小競り合いを含めて戦いに敗れた記載が出てくるのは、第14代仲哀天皇の頃からですし。

 

しかもそれは仲哀天皇の皇后である神功皇后の功績をたたえる上で外せない事だからという事情もあったでしょう。

第10代崇神天皇でも、本来なら政治的致命傷になる疫病の蔓延が記載されている事情が、その後の業績を紹介する上で欠かせないエピソードだったからという事情に似ています。

シリーズ8

 

そう考えると、国力で圧倒していたとみられる大和朝廷が熊襲と手を組むことには利益がある事が分かります。

侮りがたい勢力と言え、背後に敵を抱えればうかつに攻めてこられなくなりますから。

そういう邪馬台国と大和朝廷(+熊襲)とのにらみ合いで、垂仁天皇の時代は推移していたのでしょう。

そして国力を蓄えて、景行天皇にバトンタッチしたのでしょうね。

 

そしてその均衡を、熊襲が破った。

垂仁天皇の外征に対する消極姿勢を見て、熊襲は大和朝廷を侮っていたのでしょうね。

 

景行天皇に熊襲の使者がどう申し開きをしたのか記紀は沈黙していていますが、戦端を開く口実になるような言動だったことは、想像するに難くありません。

そしてこの後の景行天皇の行動を見れば、それまでから熊襲がやらかしていたとしか思えません。

詳細は次回触れますが、何しろ景行天皇の行動が素早いことが、それを示していると言っていいと思うのです。