大和朝廷の始まりとは21~実はある日本人ナンバーワン記録保持者な景行天皇 | 朱雀ひのでのブログ

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愛子内親王殿下の誕生記念日を、ささやかながらのお祝いとして、アップさせていただきました。

今回から第12代景行天皇の物語です。

 

【これまでのシリーズ記事へのリンク】

 

【第12代 景行天皇】

推定治世期 西暦266年~295年

(西暦71年~西暦130年:記紀の記載そのままの場合)

 

 

実は歴史学会非公認ながら、ある日本人ナンバーワン記録を持つ景行天皇

 

長年、拡大した大和朝廷の安定に勤められていた垂仁天皇が崩御された後、後を継いだのが景行天皇です。

垂仁天皇37年に、21歳で皇太子になり、垂仁天皇99年に崩御の翌年に即位されたとありますので、84歳(春秋2倍歴計算で42歳)で即位されたことになりますね。

 

さて皆さんにクイズです。

日本人男性で、最も子だくさんな記録を持っている人は、誰でしょう?

 

これ、一般には徳川幕府の第11代将軍、徳川家斉とされています。

彼は男子26人、女子27人、合わせて53人の子供をもうけました。

 

しかし実は景行天皇はこの上を行っていたのです。

なんと景行天皇は皇子皇女あわせて、80人いたと記載されています。

 

それなのになぜ、『日本人で最も子宝に恵まれた男性』と言われないかと言えば、景行天皇の実在性について、現在の歴史通説では否定的だからです。

 

しかも凄いのは、その子女のほとんどはほとんどが成人したと思われることでしょう。

徳川家斉の子女は、若くして夭折した子女も多数いたのです。

(成人するまでに25人亡くなっている)

そして景行天皇の子女は、手元に3人残し、70人余りの子女を各地方の国や郡に封じて各地に赴かせたと日本書紀に記載されているのです。

 

 

ほとんどの子女を地方に下らせた景行天皇が目指したのは、地方とのつながりと統治を強化するため

 

景行天皇の物語は、この事が強調されて始まっているので、初めて日本書紀や古事記を読んだ時にはとても奇異に感じました。

 

もっとも他の天皇の記述でも、家族の事は冒頭に書いてあるので、それ自体はおかしなことではありません。

 

ただ子だくさんなことが強調されていることと、後の第13代成務天皇になる稚足彦皇子(わかたらしひこのみこ)と、そして五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)、そして後世に名を轟かせている、日本武尊(やまとたけるのみこと)以外は、皆地方に下らせたと書かれている点ですね。

 

それ以外の七十あまりの御子は、全てそれぞれ国や郡に封せられたそうです。

 

その子孫は分王から出たと示すために、別〇と名乗ったとあります。

今も苗字で別〇さんがいらっしゃれば、元は景行天皇の血筋なのかもしれませんね。

 

地方に下った皇子と皇女たちについては、それ以上の記載がないので、その後子孫たちがどうなったのかは、以降の天皇とかかわりがない限り、消息は分かりません。

 

ただ『それぞれ国や郡に封せられた』とありますので、景行天皇が各地方の統治を安定的に行うことに寄与させようとした事だけは想像できます。

 

 

業績が一切記載されていない欠史八代の天皇方でも婚姻、子女について記載があり、その後の時代に血縁が残って子孫が活躍している事実が、その実在性を示している

 

さてこれまであまり触れてきませんでしたが、記紀の記載の大きな特徴の一つが、それぞれの天皇のエピソードを紹介していく冒頭で、天皇が迎えた皇后や妃の名、そして皇子、皇女の名を列記している事です。

 

当然、それが最も大事なことと記紀の筆者が考えていたからこそでしょう。

何しろ治世中の業績が一切書き残されていない欠史八代(第2代~第9代)の天皇方でも、それだけは書き記されているのです。

 

だから欠史八代も「過去帳」として記録されていると考えるなら、古事記、日本書紀共に十分存在が記されているのです。

そして欠史八代の子女が多くの血縁関係を持ち、その子孫が活躍している記載されているケースが散見されることからも、草創期の天皇方の実在性を否定するのは無理があると、私は考えています。

 

その辺の事を、次回にもう少し掘り下げていきます。

(これまで長らくアップできず、申し訳ありませんでした。次回は週末にアップする予定です)