大和朝廷の始まりとは18~殉死を止めさせた垂仁天皇が始めた埴輪による弔い | 朱雀ひのでのブログ

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【第11代 垂仁天皇】

推定治世期 西暦218年~265年

(紀元前29年~西暦70年:記紀の記載そのままの場合)

 

 

陵墓の周囲から様々な種類が見つかっている埴輪

 

古墳時代の遺跡、特に古墳などから良く出土されているのが、埴輪(はにわ)です。

古墳を取り囲むように配置されて出土しています。

形も様々で、円筒形の物から、家の形、人の形や馬の形その他、多種多様なものが発見されています。

その様から、埋葬された人を弔うために配置されたものと考えられています。

 

これがなぜそのような風習が行われていたのでしょうか?

これについては、実は日本書紀がその理由をきちんと説明しています。

 

 

痛々しい殉死の様を見て、悪習を断ち切ろうと考えた垂仁天皇の英断

 

それは垂仁天皇の時代。

垂仁天皇28年に、叔父(天皇の母の弟)にあたる倭彦命(やまとひこのみこと)が薨去されました。

 

当時は貴人が亡くなった際、生前仕えていた近習(側近)の者を生きたまま陵の周囲に埋めるという風習があったようです。

生前仕えていた主人に殉じ、あの世でも仕えさせて身の回りの世話をさせようという考えでしょう。

現代では許されることではありませんが、古代においては世界中で見かけられた風習です。

 

この時もその風習に則って近習を周囲に埋めたのですが、近習たちは昼夜問わず泣き叫び、やがて命尽きた後、腐った屍を犬や鳥が漁ったと言います。

 

その様を垂仁天皇は見て、心を痛めます。

そして群臣を集めて、次のように詔しました。

 

生きている間に愛し使われた人々を、亡者に殉死させることは痛々しい事だ。古の風であると言っても、良くない事は従わなくてもよい。これから後は諮って殉死を止めるように。

 

 

皇后の崩御で弔い方に悩む、垂仁天皇

 

さて時はさらに過ぎ、垂仁天皇32年に、皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が崩御されました。

 

ここで垂仁天皇の皇后は佐保姫ではなかったの?と思われた方に、説明します

大和朝廷の始まりとは14で紹介したエピソードで、皇后佐保姫とその兄による反乱の後に、垂仁天皇は但馬(今の兵庫県)から女性を召して後宮に入れました。

その内の一人が日葉酢媛命で、3人の妹ともに後宮に入ったというのですから、姉妹揃って美女だったのでしょうか?

日葉酢媛命は召し上げられた垂仁天皇15年の内に、2人目の皇后となりました。

 

ちなみに日葉酢媛命は、次代の天皇となる大足彦命(おおたらしひこのみこと、後の第12代景行天皇)や前回のエピソードで出てきた倭姫命(やまとひめのみこと)など、5人の子女を産んでいます。

 

日葉酢媛命の崩御で、当然弔う必要がありますが、殉死を禁止するなら、それに替わる弔い方を考えださなければなりません。

特にいい方法が思いつかなかった天皇は、また群臣を召して次のように詔しました。

 

殉死が良くない事は前に分かった。では今度の殯(もがり)はどうするべきだろうか?

 

 

埴輪によって殉死に替わる弔い方法を献策した野見宿禰

 

この時大和朝廷の始まりとは15で紹介した、野見宿禰(のみのすくね)が献策を提示しました。

 

野見宿禰は、出身地の出雲(現在の島根県)から土部(はじべ・土器を作る職人)100人を呼び、人の形、馬の形、色々なものを作って天皇に献上して言いました。

 

これから後、この土物(はに)を以って人の代わりとして、陵墓に立てる決まりにしましょう。

 

垂仁天皇は我が意を叶えるものだと大変喜び、弔いのために初めて日葉酢媛命の陵墓の周囲に埴輪を立てました。

そして天皇は改めて詔を出し、陵墓に生きた人を埋めることを禁止し、必ずそれに替えて埴輪を立てることを命じました。

 

この功績で、野見宿禰は陶器を生産するための土地を与えられ、土師の職を与えられ、本姓も土部臣(はじべのたみ)と改め、埴輪の生産と天皇の葬送を司ることとなりました。

 

 

*****

 

ここでも人の命を重んじた、垂仁天皇の人柄が現れていますね。

埴輪が陵墓の周囲にある理由は、実はこれなのです。

このエピソードを、多くの歴史家や歴史教科書がスルーしていますが。

まあこのエピソードを紹介すると、大和朝廷が少なくともこの時代から実在することを認めてしまうために、『歴史を紹介しない自由』を発揮しているのでしょうが。

 

さらには古代から大和朝廷が仁政を敷いていたことが、ばれてしまうのが嫌なのでしょう。

今の歴史学会の『権威』や歴史教科書の描く大和朝廷は、とんでもない圧制を敷いていたという論調でストーリーを組み立てているので、それがこの一つだけでも崩れ去りますからね。