10代目の天皇が、なぜ『初めてこの国を治めた』とたたえられたのか?
第10代の崇神天皇。
この方は『御肇国天皇』(はつくにしらすすめらみこと)という称号を民から奉られたと日本書紀に書かれています。
意味合いは、『初めてこの国を治めた天皇』ですね。
第10代の天皇がなぜ、『初めてこの国を治めた天皇』と呼ばれたのでしょうか?
この称号が、それまでの天皇陛下が架空の存在であるという説が出る原因にもなっています。
では初代天皇とされる神武天皇はどうかと言えば、『古語にもこれを称して言う』として、以下の様に記載されています。
『畝傍の柏原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかり立てて、高天原に千木高く聳え(そびえ)、初めて天下を治められた天皇』
『初めて天下を治められた天皇』の前の名乗りが長いですね。
古語というくらいですから、広くその名乗りで神武天皇が呼ばれていた事を示唆していると見てよいと思います。
そうなると、なぜ10代も後の天皇が『初めての天皇』と呼ばれたのでしょうか?
それを探るため、日本書紀の原文を見て、比べてみます。
於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉
(意味は、上記の茶色で引用した部分と同じ。その後に、神日本磐余彥火々出見天皇と称される、とある)
天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也
(天神地祇ともに和やかに、風雨も時を得て百穀もよく実り、家々には人や物も充足され、天下は平穏になった。そこで天皇を褒めたたえて『御肇国天皇』と呼ばれた)
つまり崇神天皇の『御肇国天皇』とは、自称ではなく、民からそのように呼ばれた称号だという事です。
恐らくは戦乱や天災に常にさらされ、世の中が不安定な情勢が続き、治安が悪く、民の生活が安定するような時期が、ずっとなかったのでしょうね。
それが崇神天皇によって戦乱が収まり、治安も良くなり、天候も(たまたま?)安定して、作物も豊作になり、民の生活も豊かになった結果、人口も増えて落ち着いた生活が送れるようになったのでしょう。
そしてそのような安定した生活を、民が始めて送れるようになったのでしょう。
それを民が喜び、自然発生的に天皇を称える言葉として出たのでしょうね。
だから『初めての天皇』というより、『初めて安定して国を治めた天皇』と訳した方が、より事実に近いのではないかと思います。
神武天皇の称号は、本当に初めての天皇だったから。
崇神天皇は、初めて国を安定して治め、また民にも初めて慕われた天皇だったから。
日本書紀の記載の違いから読み解けるのは、ここですね。
滅ぼした対抗勢力を祀ることで、抵抗勢力を慰撫した?
さてその崇神天皇ですが、初めから安定した治世を行えたわけではありませんでした。
即位後疫病が蔓延し、即位5年目には民の半数が死んだとあります。
そしてその翌年は、百姓が逃亡したり、反逆したりする者がいたとありますから、到底安定した治世とは程遠い状態だったのです。
これをどう打開したかといえば、天皇は神前で占いを行い、原因を探ろうとしたとあります。
今の視点で見れば、科学的解決策とは程遠い話ですが、1800年以上前の話なので、当時の基準で言えば、最先端の方法でしょう。
その時倭迹迹日百姫命(やまとととびももそひめのみこと)が神がかり状態になり、次のような事をお告げされたのです。
(以下、原文と宇治谷氏の現代訳版を元に、私が意訳しています)
私は大物主の神。
私が世を乱しているから、国が治まらないのだ。
私の子である大田田根子に私を祀らせたら、世は治まる。
また海外の国(現代の意味での海外ではなく、大和朝廷に従っていない周辺国と言う意味)も、自ら帰順するだろう。
あるいは抵抗勢力の長と姻戚関係になって取り込むための『公式シナリオ』が、神々との占いだったのか?
大物主の神については、その後先に触れた倭迹迹日百姫命が嫁いでいますから、真の意味での神ではない可能性があると思います。
現実に世が治まっていないものが神の仕業というのは、因果関係を見出すのが困難ですから。
どちらかといえば、大物主という首領を長とした、大和朝廷と対抗していた勢力と見るべきでしょう。
あるいはかつての力を失い、マフィア、あるいはテロリストの様な集団と化して、治安を乱していた勢力だったの見るのが妥当かもしれません。
周辺国の勢力とも結びつきがあったからこそ、『私を祀らせたら(懐柔したら?)世は治まる、周辺国も帰順する』といったと考えれば、筋が通ります。
その懐柔策として倭迹迹日百姫命が嫁いだと見るなら、あり得ないことではないようにも思います。
あるいは神々との占いと称して大物主勢力を懐柔すべしというシナリオを(公式には)出し、その背景には倭迹迹日百姫命を通じた大物主との裏工作が行われていたのかもしれませんね。
もしそうだったとするなら、大物主との妥協に反対する勢力への言い訳として『神々との占いの結果だ』と強弁するという『公式シナリオ』だったのでしょうね。
しかし大物主の神の正体が小さな蛇だったという描写があり、それに驚いて倭迹迹日百姫命が箸でケガをしたのが元で亡くなったといいます。
この神話的描写の中に、何か現実とのつながりが隠されているのでしょうが、ちょっとそこは読み解けませんでした。
記紀に箸墓古墳の被葬者が倭迹迹日百姫命と明記されているのに、資料なしにこれを卑弥呼の墓と主張するおかしさ
ただその後倭迹迹日百姫命が亡くなった逸話から、葬った墓を『箸墓と呼ぶ』とあります。
箸墓は、現在も奈良県桜井市にあり、卑弥呼の墓という説があるものです。
しかし日本書紀という一級資料にはっきりとその由来が書いてある以上、倭迹迹日百姫命の墓であると見るのが自然でしょう。
実際卑弥呼はどこに葬られたのか、明確に記載した資料などないのです。
そもそも大和朝廷の始まりとは3で触れた通り、卑弥呼の都の所在位置についての裏付けになるものが一切なく、邪馬台国がどこにあったのか、未だ分からないのです。
私はその記事で推理した通り、邪馬台国(の本国、または首都)は、大分県宇佐市の宇佐神宮の周辺地域だったと見ていますが、あくまで魏志倭人伝の読み解き方で推理しただけで、遺跡や発掘物などで証拠を見出したわけではありません。
ただ奈良県や大阪府の各所で発掘された遺跡のどれを見ても、直接邪馬台国の存在の証拠になるものはなく、それに対し、日本書紀の記載と重なる発掘は、纏向遺跡等があり、また出土品もいくつもあります。
私が大和朝廷の始まりとは3で触れた通り、魏志倭人伝は誇張表現と見られるところがいくつもあるので、卑弥呼の墓についての記載も、誇張である可能性があると思います。
大いなる墓=箸墓というのは、一級資料の記載か、出土品での裏付けのいずれかもない以上、それは飛躍しすぎた論法だと言わざるを得ないと思います。
*****
さてこの後崇神天皇は、大物主の神を祀るなど、様々な神を丁重に祀りました。
そして災害は(本当に因果関係があるのかは不明ですが)収まっていき、情勢も安定していったのです。
この後全国制覇の第一歩に踏み出すのですが、記事が長くなったので、それは次の記事に譲りたいと思います。
※今回『大和朝廷の始まりとは6』を飛ばし、7を先にアップしました。
6は奈良県に出土した遺跡から、欠史8代を考察する記事の予定ですが、まだまとまっていないので、後日アップします。
(かなり先の話になる可能性もあります)