あけましておめでとうございます。

横浜は、年末から良い天気で

心が前を向くしかないよね!!!

って言うくらいの青空の日々です。

 

 

2020年の

失った人たちやものたちは

この青空の中で昇華していきました。

 

 

私には私の夢も希望もある。

 

 

何歳になっても今の私が一番イケてる。

 

 

 

母からの呪いのコトバを手放したい。

 

 

母親だから

私より年上で当たり前。

 

 

にもかかわらず、

 

「女は若くなくちゃだめよ。

26歳で結婚なんてウエディングドレスが似合わなくてみっともなかったわ」

とは、知人の結婚式から帰ったときの一言。

 

 

こんなことを聴かせられ続けて居たら

洗脳されるよね。

 

当時、まだ10代だったにも関わらず、

「早くしなくちゃ、早くしなくちゃ」

と何に対してか分からないけど、

いつも何かに追いかけられて焦っていた。

 

でも、何に追われているのか分からないから

たどりつく場所もない。

 

ますます、どこに行って良いか分からなくて焦るだけ。

 

 

 

 

私を焦らせて、

自信を奪い取るだけの母親であった彼女は

自分に自信がなかった人なんだろう。

 

 

自信がないと、

自分よりダメだと思う人を見つけて

その人を

こき下ろして、

自分が上に立ったような気になって

自分のふらふらしたプライドを保つのだ。

 

 

でも、それって嘘だから

何度も何度もやらないと気が済まない。

だって、自信がないのは何も変わらないんだもの。

そして、何度やっても、

嘘だから自分の自信にはならない。

 

 

近くに居る、生け贄になる子どもは

たまったものじゃない。

 

 

 

そしてね、

臓器にはそれぞれの感情があるんだってさ。

 

 

例えば心臓は喜びの臓器だそうだ。

感情が豊かな人は

心臓がとっても頑張るらしい。

 

 

 

そして、私は、肺のトラブルが多い人生だ。

それも、性的虐待を受け始めてからのことだ。

 

 

命の危機は、いつも2がつく年に訪れる。

 

 

12歳の時。

終わりの見えない虐待からの生きる場所がない子ども。

自殺する代わりに、カミソリで家中の網戸を切り裂いた。

 

 

22歳。

マイコプラズマ肺炎だった。

ただ、この頃は街のクリニックは

レントゲン撮ってから2週間しないと結果が分からない。

その間も、子育てと

当時の夫の家族の世話、認知症老人の世話で

よく死ななかったと思う。

死ねば良かったと何度も思った。

 

 

32歳。

再婚して幸せだったはずなのに、

夫との間に生まれた子どもは二人とも障碍児。

前夫との間の子どもは

なぜここまで自分の「悲劇のヒーローに」にしたいのだ?

と、全く理解が出来ない。

 

大雪の中、

雪かきをして、車を出せるようにした。

夫の送り迎えと

息子の塾の送迎のためだ。

 

風邪気味だったにも関わらず無理をした私は、

夜中から40度超えの熱を出す。

 

ふらふらしながら運転して病院へ行った。

 

医者から

「肺炎だから入院しましょう。」

と言われたが、

障碍児二人抱えて

誰も面倒見てくれないことを思うと

「入院は無理です。」

と無理矢理帰ってきた。

 

今、思えば、入院して良かったのだ。

夫が仕事を休めば良いのだ。

 

 

私が死ぬ事と

2週間仕事を休むことの

どちらを選ぶか?

 

 

命に関わるだろうことを

私も甘く見ていた。

周りはもっと、私の命を軽く扱っていた。

 

 

 

 

42歳。

夏型過敏性肺炎。

35過ぎから毎年、6月から10月まで

37.4度から下に熱が下がらない。

でもね、障碍児二人抱えて

ちょうど、いろいろ起きる夏休み前。

どこの医者へ行っても

私のバックグランドを知っている人は

「お母さん、過労です。」

で終わった。

 

「ちゃんと休んでね。」

 

え~~と、どうやって休むの?

解熱剤を飲み続けて

なんとかやり過ごすことを何年も続けていた。

 

過労の先に

命を脅かす

アレルギー性の肺炎があったのだ。

 

徐々にその病理は私を蝕み、

とうとう42歳の時に牙をむいた。

 

 

最初は結核の疑いをかけられて入院した。

 

2週間の入院の後退院したのだが、

体調は一向に良くならない。

 

とうとう、私は呼吸が出来なくなり

救急車で病院から病院へ運ばれた。

 

夫は、医者から

「かなり危険な状態です。」

と言われたそうだ。

 

このとき、

多分、一番辛いのは病気の私のはずだ。

 

しかし、ニンピ人と人でなししか居ない私の周りの人間の反応は

 

 

「あんたが病気にになったら、こどもたちが可哀想でしょ!!

なにやってるのよ!!」

 

これは、私のバカ母の発言。

 

彼女は常に私が世界で一番悪い人なのだ。

 

 

7月から熱が下がらず、入院。

炎症が落ち着いた2週間後に退院したら

途端に咳と熱が再発。

病院へ行くが、原因が分からない。

 

「肺炎なら、この抗生物質が効かないはずがない」

というかなり強い薬を使って治療をしてどんどん状態が悪くなる。

 

そして、呼吸困難に陥り

救急搬送になったのだった。

 

 

点滴につながれて

超高容量ステロイド治療で

奇跡的に生き返ってきた私の隣で

夫に深々とため息をつかれた。

 

気持ちは分からなくもない。

何をしても良くならない肺炎。

 

大学病院で初めて

「夏型過敏性肺炎です。」

と病名が告げられた。

 

 

 

私はここで

誰も私を助けてくれないと言うことを思い知るのだ

 

 

肺は悲しみの臓器。

 

 

私は11歳で

母親の再婚相手から性的に情辱され続け

孤独の悲しみを自分だけで背負って生きてきたのだ。

 

 

とうとう、身体が悲鳴をあげた。

 

 

死にたいとは思わなかった。

 

いつ死んでもいいよって思った。

 

 

このとき、三男が養護学校高等部に進学するときで

親が常に付き添わねがならなかった。

学校見学、面接、打ち合わせ、、、、すべて親が必要である。

 

 

次男は、就職間近で

こちらも親が出て行かねばならなかった。

 

 

私の願いはただ一つ。

 

 

「三男が就職するまで

動き回れる身体をください。

46歳で死んでいいです。

それまでは、誰にも何の心配もされないような

身体にしてください。」

 

 

宗教大嫌い。

神なんて居ない人生だった私が

はじめて祈ったのだった。

 

悪魔と契約したと思った。

子どもたちの進路が決まれば

私の命はいつでも差し上げます。

だから、46歳まで命をください。

 

    

 

 

ま、結果的に

54歳の今も生きてます。

 

 

子どもたちは、

真面目に働いています。

 

 

私よりよっぽど立派です。

 

 

子育ては、成功だった。

次は自分育てだ。