899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののく。すなわち戒律や制戒によって苦が生じるのである。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからなければ「不安」になり、見つかれば「安心」するという人間的思考の運動(安心⇔不安)であり、家から旅立った旅人が「不安」になり、家をもとめて見つかれば「安心」するようなものである。このような心の運動と同じであり戒律を守れば「安心」し、破れば「不安」になるのである。それを知って聖者はその両極端を制して中道を歩み安穏を観たのである。
修行者が陥りやすい罠それは、やはり修行に絡んだ人間的思考の運動である。人間的思考の運動は、巧みに立ち上がり修行者を蝕む。故に常に気をつける必要があるのだ。戒律は、もちろん守るべきものではあるが、戒律に依存し安心することになっては本末転倒である。ちょうど激流の上に浮かぶ戒律と言う泡の上に乗ってひとときの安心を得ているようなものである。ひとたび戒律と言う泡に乗ったとしてもそれは泡であるからそれが破られたときに不安へと変化するのである。それを知って修行者は、この無常の世に依存するものを作らず、自らの思考の運動によく気をつけて目の当りに観る現象を観察し、その気づきから得られるところの智慧をもって遂には彼の岸へと到達するのである。