スッタニパータ マーガンディヤ841の解説 | suttanipatacomのブログ

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suttanipata.com管理者がスッタニパータ(ブッダのことば)をわかりやすく現代風に解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

 


841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。
 

 

 

841の解説

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自らが考える偏った教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、自らが執着したことがらについてそれによる心の迷いに陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安(分けない思考)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

 

人間は、この世の事象すなわち何かが生じ、何かが滅することを見て、この2つの思考に陥る。それは、「ある」「ない」である。何かがある時に優秀だと考え、ない時に無能だと考える。その思考に基づいて「ある」ものを快と考え、「ない」ものを不快だと考える。その思考に基づいて教義がある者、学問がある者、知識がある者、戒律や道徳がある者が清浄に近づくと考え、また教義がない者、学問がない者、知識がない者、戒律や道徳がない者は、清浄ではないと考える。この2つに分ける思考の者は、常にこの2元の運動をしているので、内心の平安は得られない。それを観て聖者は、この両極端に分ける思考に常に気をつけ、人間的思考の運動を除きさって内心の平安を観るのである。

 

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