スッタニパータ パスーラ825の解説 | suttanipatacomのブログ

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suttanipata.com管理者がスッタニパータ(ブッダのことば)をわかりやすく現代風に解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。
 

 

 

825の解説

かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると自らの偏見を持って烙印らくいんし、師などをかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずからの偏見にもとづいて真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと人間的思考の波を立てて。
 

 

 

 

人間的思考(教えの正⇔邪を比較する運動)の人間は、自らが学んだことあるいは知り得た偏見をもとに他人と比較し論破するために論議を欲する。かれによるとかれの偏った考えの内においてはかれは真理に達したものであるらしい。その偏見にもとづいて、かれの中には知らず知らずのうちに慢心と称賛を欲する欲が生じているのである。そして論戦に突入する。お互いの偏見がぶつかり合い論議を交わし、自らの考えと違う者を双方とも愚者と呼ぶ。そして、論破し称賛を得られれば悦び、敗北すると悲しむ。そうして心の激流を作っていっているのである。人は知るべきである。聖者は心が寂静な者であって、人間的思考(正↔邪)の運動をするものではない。また、論戦を欲することもない。その相手の思考もまた変化するものであって、その時の思考をもって判断はできないのである。聖者はその者はこれこれこう言う理由で現在はこのような状態にあると知る。そして先々ではこうなるであろう故も知る。論戦する人間は現在に限定した非常に狭い範囲でしか物事を見ない。聖者は、現在、過去、未来をも見通す智慧をもつ。全てを知る聖者にはもはや論戦など意味をなさないのである。

 

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