66 | 想想記

想想記

思い付き


とりあえず 前回の補足の
ナシ族の木(ムー)氏が建国した木里(ムーリ)王国 又は 木(ムー)王国の範囲を視覚的にしてみた。

すると 以前に投稿した 水稲耕作の図と重なりはするから 稲の文明なのだと考える。
が、
水稲耕作の遺跡までは範囲に入ってないのが面白いところだな。

水稲耕作は 低地での農業技術であって 古代日本でも 低地に水稲耕作が広がっている。だから 洪水や低地の沿岸地域は津波に やられ捲っているんだな。そのおかげで 古代の水田跡が 保存されて現代に発掘されてたりもするから 考古学としては有難いだろうが 当時の人は せっかくの畑を捨てないといけなかったから 大変だったろうな。

話が逸れた…

長江の河口付近は低地で 内陸に行くに従い高くなっていく。
実感としては 身体に感じないが 緩い坂になっている。

昆明 麗江 大理 の辺りは 雲南省の雲貴高原で だいたい山岳地帯で ここが水稲耕作の発祥地とは考えにくい。段々畑は 低地から伝播してきた水稲耕作を なんとか山岳地帯でもと考えた人がいたのだろうな。
でも 基本的には 雲貴高原で住んでいる人は 畑仕事はしない。
米が欲しい時は 山を降りてもらいに行く。
最近では 日本人とかが行って畑仕事を教えたりもしているが 元々は 狩猟民族が多い。

それに 低地と高地では 文化も違う。

それは 古代日本でも同じで 山の高い地域の人の文化と低い地域の人の文化は違い 住み分けをしていた。
神社も古い神社は 結構な山奥に坐すが 徐々に沿岸地域にも広がっていく感じになっている。
しかし 面白いことに 縄文中期の稲作は 山岳地帯でも行われている。それが 大陸での水稲耕作の始まった年代とほぼ同じという。
段々畑は 日本にもある。
それは 日本に伝わって来たものなのか それとも 当時の縄文人が伝えて行ったのか。


木里王国の範囲 No.1 とあるのは あと少し 地図を足す為で そうしてるんだけど 地図描くの面倒くさくってね(◞‸◟) また今度にした。