森山大道さん、文章上手いですね。大阪の池田というところの出身ですが、そこから記憶はスタートして、大阪から出て上京するまでの記憶など、いろいろと出てきます。森山さんの文章の特徴として、主題を話し、そのあと話題を遠ざけて、そのあとまた主題に戻るというパターンで、とてもパズルのような文章だなと思っていました。計算されている言葉選びと、筆の運びがすごすぎる。高校も中退してしまいますが、本が好きだったようで、その影響だと思いますが、文章が文豪みたいです。

 

最近、写真もそうですが、本物を見たあと私の写真はまだまだだなとか、森山大道さんの文章を読んで、私の文章はうるおいがないなとかいろいろ考えます。色気のある文章、行間を読ませる文章など、これから書けるようにしたいと思います。最近は、学習欲が高まっています。

【感想】

果たして人生とは、何か。10代では分からなかったし、20代で人生を語るには経験が足りない。40代になってみて、経験が蓄積されてきて思うのは、ロングスパンで人生を捉える必要があるということ。若いころは、わかりやすい結果の出やすいことを反射的に選んでいた。いい高校に入り、いい大学に入り、いい会社に入るという呪文のように唱えられた人生の方向性に、とらわれ過ぎていた。森山大道さんは、その分かりやすい高校生活や、学生運動のようなものの渦中に入っていかなかった。ただ、道なき道を進み、写真に救いを求め、結果としてその写真の大家になった。森山さんが当時トレンドだと言われているようなことに没頭し、自分の人生をこうあるべきだという磁場の中にさらさなかったのだと思う。こういう風に生きたら、他人から見たらスマートだとか考えていなかったと思っている。人生を振り返ると、なぜ若いときはあんなに強がって生きていたのだろうと思っている。もっと、弱音を吐くべきだったと思っている。私は、いまだに囚われているところがある。こういう立ち振る舞いがより自然に見えるという不自然な行動をとっている。完璧に立ち回ろうとする人生の息苦しさのようなものが、私は別に息苦しいとすら思わなかった。たぶん、綺麗に人生を形作ることが仕事のように、生きる意味のようになっているからだと思う。ただ、ロングスパンで考えたときに私もお綺麗な作られた人間から、徐々に野性味を取り戻しているように思う。コースから外れていくというオフコースが私にとって、ライフスタイルになりつつある。

 

もっと、野心的に、欲望のままに動いてもいいかもしれない。綺麗に生きすぎたと思っている。もっと他人から目を背けられるくらいの自我があっても良かったと思っている。森山大道さんの犬の記憶を読んでいると、森山さんの精神世界に没入しているのが分かる。その没入感が森山さんの孤独さ、誰にも理解のできない心境と、でも理解できるような人間味も感じて。もっとプリミティブな感性を出して、何事もやるべきなのではないかと思っている。コンプライアンスが厳重に管理され、今はお綺麗な世の中になってしまい、同調圧力もある。人間はもっと汚いものだと思っている。その汚さを表面上は綺麗に見せて、たまに垣間見る醜悪な人間性を見抜かれ、新入社員は会社を去るのかもしれない。ゆるブラックなどと称される会社もあるだろうが、それは根源的な人間の醜さを労働環境の健全性を機械的に作って、隠しているだけだと若者に見抜かれているのだと思っている。

 

デコレーションする自分から解き放つときが、この40代になってきているように思う。私はどんな人生を歩むのだろうか。そのヒントがこの森山大道さんの犬の記憶にあるように思っている。少し寂しさを感じる文体に、ちょっと癒されている。