当ブログのタイトル『北関東鮨屋人生奮闘記』。
当初は「良いタイトルつけたぜ!」などと自己満足していました。
しかしその後、タイトルを意識しすぎて(勝手に意識していただけかも)何だか重荷に感じる様になりました。
それが相変わらずの更新遅れという事態の原因だったと今更ながら理解してる次第です。


その割には「日々奮闘中です」などと生意気な事を書き殴ってきましたが、
改めて考えると、今の時代を生きている人々全てが『奮闘中』な訳で。
このブログは少々図に乗って生きてきた私の傲慢な人生の一部であった様に感じます。
そう気付かされたのは、約1年前のある切欠でありましたが・・・


その後も、のらりくらり更新(謝)してきた訳ですが、
ここ2ヶ月は私自身を見直す機会を、改めて意識できた日々でありました。
そんな事を色々と考えさせてくれる出会いや精神的な啓発を味わった訳で。


今更ながら自分は色々な人に(お客様に限らず)助けられて生きていると実感した次第です。
そして感謝して生きるようになったら、とても楽になりました。
変な宗教じゃないので悪しからず(爆爆)


面白い事に、意識が変わると仕事に対する姿勢も変わってきました。
仕事だけでなく全てが変わってきたように感じます。
このブログに対する姿勢も然り。
そろそろ一段落つけても良い頃だと感じ始めました。


前置きが長くなりましたが(謝)
当ブログ『北関東鮨屋人生奮闘記』、今回の更新をもって終了とさせていただきます!
勝手気ままな自己啓発ブログでありましたが、お付き合い下さった皆様には感謝いたします。
ありがとうございました♪


ただ、カテゴリの『昭和の鮨職人』を中途半端な状態で終了する形になるのは一抹の寂しさを感じます。
これは昭和を生きた鮨職人であった、私の父の半生を書き続けようと思った訳ですが、
意外と鮨以外は感心できない武勇伝ばかりを母や同世代の先輩方から聞くに、全ては書けないと認識した次第です(笑)


急逝だった事もあり、父の想い入れが美化しすぎた時期に始めたカテゴリだった事もあり(爆)
鮨職人として親として尊敬できる父ですが、人間らしい所もあり安心したというのが私感です(笑)
良い事ばかりが人生ではない。
結果、父の人生は『知る人ぞ知る』事柄であれば良いと解釈しました。


今回のブログの経験は自分の人生において、小さいながら大きな一歩だったと解釈してます。
説明し難いですが、凝縮した何かを手に入れられた気分です!
今後も新たな奮闘人生を面白可笑しく満喫すると共に、更に鮨業を一貫して邁進し『守破離』を極めて行きたいと思います。


最後に・・・
勝手気ままなブログを最後まで読んでいただいた皆々様の、これからの人生に幸多き事をお祈り申し上げます♪
では。

気が付いたら既に12月、今年もあと僅かですね。
相変わらず久々のブログ更新で申し訳ございません(謝)
確認すると9月から全く更新無し(汗)
恥ずかしい限りです・・・を通り越して自分で呆れています(爆)


今回は今年の年初めに書き殴ってUPするのを躊躇ってお蔵入りしていた文面です(笑)
何故今更??と思われますが・・・
その時の自分を斜め右上から笑って見られる様な気持ちになった今の自分がいるからですかね♪
そんな過去の私ですが、笑ってやって下さい(爆)
↓↓↓



感情が抑えきれない。
それは人間として致し方ない所為ですが、
商売においては特に抑制しなければなりません。
私的な解釈ですが、これは非常に重要なことであり、
技術以上にプロ意識でなくては、と感じてます。


しかしそうは言っても、そこが整理できないのが感情であって・・・
かく言う私も、相変わらず感情の起伏を抑えられない人間です(汗)


また感情を抑える行為の殆どが我慢であり・・・
そこでは何とか抑えることが出来ても、ストレスは蓄積されいく。
何処かで抑えたものは、何処かで吐き出さねばなりません。
そうで無いと最後は自身が崩壊してしまう訳で。


社会とは時として、白いものを白いと言えない時があります。
そんなジレンマを感じ我々は生きている訳で。
それはとても辛い事ですね。


しかし逆に感情むき出しにして気が晴れる訳でも無く・・・
むしろ後に残る空虚感は更に辛いわけで。。。
そんな事をギリギリの状態で日々を送ってるのが常々ですが、
最もらしく書きながらも、商人も人間。
失敗す事もあります。


その度に反省する日々ですが、行いに一切悔んではいません。
それが商売として人として、守らねばならない領域だからです。
自分はそう確信するかの如く、邁進するだけです。


今回も勝手に自己啓発でした(爆)



↑↑↑
支離滅裂ながら強引にまとめて救われようとしているみたいな(汗)
まあ頑張ってたのかな~♪
と他人事な気分です(爆)

当店の常連様が卒業高で講演会をした話です。
その高校の卒業生の中では、大出世された常連様に、
学校側としては卒業後の成功秘話でも語ってもらいたかったのでしょう。


が、常連様は自分の事は話さず『倖田來未』の話をしたそうです。
「エロかっこいい」「エロかわいい」などと連発して(爆)
『倖田來未』自身のヒットするまでの下積み苦労話を盛り込み。
話のつかみ所が良かったようで、後輩達は良く聞き入っていたそうです。


しかし講演後、学校側から、いささかお咎めを頂戴したとか。。。
当然と言えば当然ですが(爆)
成功秘話が「エロかっこいい」話になっちゃった訳ですから(笑)


常連様曰く・・・
「高校生なんて「あの子が好きだ~彼氏がカッコいい~」なんて日々夢中な世代だよ。
 そんな彼らの前で突然知らないオジサンが偉そうに自分の成功秘話を話して真剣に聞くと思う?
 彼らの目線で話さなきゃ!そして彼らに話す訳だから注目させなきゃね~。」
 

講演内容の成否は私には分かりませんが(笑)
成功者の相手を見抜く観察力の凄さを感じました。
注目されてなんぼの商い、正に成功の秘訣です。


参考にしなければ(汗)

父は卒業後、祖師ヶ谷大蔵の鮨店でお世話になる訳ですが。
その鮨店は当時としては中々の高級店だったそうです。


近くに映画の撮影所(東映?松竹?)があり業界関係者も来店してたとか。。。
父は生前「この鮨店の『賄い』は田舎出身の少年にとって御馳走だった」と言ってました。
地方出身者ゆえのジェネレーションギャップが多分にあるとは思いますが(笑)
兎に角、初めての東京での修行は父にとって楽しい暮らし(田舎に比べて)だった様です。


この時代、父は休みの日に他店の鮨店を食べ歩きしていました。
そこで初めて『アオヤギ』を食べたと言ってました。
勤めていた店には『アオヤギ』はなかったそうなので、その美味しさに感動したそうです。


翌日、店の親方に「休みはどう過ごした?」と訊ねられた際、アオヤギの事を報告した所、
親方は「勉強熱心で何より!」と父を褒めてくれましたが、続けて次の様に言ったそうです。
「でもその店はもう行っては駄目だよ」と。


その当時、アオヤギは安い鮨ネタの代表格だったらしく・・・
その店の主人にとって「アオヤギなんてネタを扱っている鮨屋は勉強にならない」との事でした。
今や漁獲減で高級貝の仲間入りしたアオヤギ(大粒のもの)ですが、当時は沢山獲れたとの事。
アオヤギを扱っているか否かの目安が、鮨屋の格付けの区別だったのかも知れませんね。


アオヤギに限らず、『鰯』『カワハギ』等も今や高級魚扱いの現代。
かたや養殖技術による『真鯛』『平目』の価値観の低下。(天然物は味、値段共に別格ですが)
時代の変化をひしひしと感じます。


その物の美味しさを評価しないで価値観だけで評価する考えは、私としては遺憾ですが、
今現代の料理屋だか居酒屋だか、区別の分からない鮨屋事情よりはマシに感じます・・・当店も然り(汗)
良くも悪くも昭和初期とは、鮨屋が鮨屋らしい時代だったのかも知れませんね。

中学を卒業後、父は東京の祖師ヶ谷大蔵にある鮨店に小僧に入りました。
当時の担任の勧めで進学の話もあった様ですが、辞退して就職を選んだそうです。
当時、父の実家は貧しく、子供を進学させる余裕は無かったそうです。


それでも祖母は父にこう言ったそうです。
「その気があるなら進学させてやる。ただし私の手伝いをする約束で」と。


その頃、祖母はリヤカーで魚の行商をしていました。
評判は頗る良く、売り上げは中々だった様です。
しかし儲けはそれほどでも無かったとの事・・・薄利多売?商売下手?
父曰く、祖母は金勘定は苦手だったとの事でした(爆)


私が幼少の頃、新潟の祖母から『塩引き鮭』が送られて来たのを記憶してます。
祖母の目利きで直接買って送って来る物で、それは見事な塩辛さのある鮭でした。
父は祖母の目利きのDNAを色濃く引き継いだようです。
父の鮨に対する気概の原点を感じます。


その祖母の死後、地元に残った叔母が引き続き『塩引き鮭』を送ってくれましたが、
やはり祖母の代物には遠く及ばない物です・・・叔母さんゴメン(謝)
『目利き』とは、字の如く正に然りですね。


話を戻します。
父は「勉強はそこそこ出来た」と自認していた様ですが、就職する事を選択しました。
この当時、実家の家計はかなり切迫していました。
しかも直ぐ上の兄(私の叔父)は、既に高校へ進学していました。
叔父は父以上に勉強が優秀だったらしく、当時の担任のたっての希望で進学したとの事。


それらの状況は当時の父も十二分に理解していたのは事実。
よって就職を選択した訳ですが、何故鮨屋だったのか。
生前の父曰く「兎に角、食べ物に困らない飲食店に勤めたかった」と。


その選択は、純粋に生きる事の執着心を感じさせます。
父に限らずその時代を生きた人々は、自殺者の多い現代人とは『何か』が違うのでしょうか。
我々は豊かな時代故に、豊かでは無くなってしまった様な気もします。


続きは次回に。。。

父の出生から幼少期について少々お話を。。。


昭和14年(1939年)、亀戸の自転車屋の8番目(9人兄弟だった)として誕生。
生後の状態は極めて病弱であった様で「長生きできないね」と姉兄達(私の叔父と叔母)は当時思ったらしいです。


その頃の時代背景は太平洋戦争だった事もあり、東京大空襲により家屋を焼失。
その時の父は幼少期の為、記憶は極めてうろ覚えの様でしたが、
燃え盛る町の中を母親(私の祖母)に手を引かれて逃げた記憶は覚えていたと言ってました。
その時に焼灰が目に入ったことにより、父の片目は非常に視力が低かったのを記憶してます。


先日、その時の話を叔父や叔母に聞く事が出来ました。
長男(1番目)と次男(4番目)は兵役で不在。
空襲で逸れた父(私の祖父)を探しに出掛けた長女(2番目)も逸れてしまったとの事。
次女(3番目)三女(5番目)四女(6番目)三男(7番目)父(8番目)五女(9番目)と母(私の祖母)の
7人で焼け落ちる市街を逃げていたらしいです。


防空壕が何処も満員で入る事が出来ず、やっと入れそうな防空壕に辿り着くも子供2人入るのが限度だったと。
子供を残して万が一死に別れになっても不憫だと考えた祖母は、入壕を断り家族で逃げたそうです。
その選択は結果正しかったようで、防空壕に逃げ込んだ人々は空襲の熱により全て焼け死んでしまったそうです。


その頃逸れた父(私の祖父)と長女(2番目)は空襲エリア外まで逃げ延び、町が燃え盛る景色を見ていたそうです。
長女の叔母曰く「まるで花火の様に綺麗で、夜なのに昼間のようだった」と。
翌朝、私の父と家族は、黒焦げになった死体を裏返しては、逸れた祖父と叔母を捜したそうです。
叔父叔母は笑いながらその時の事を喋っていましたが、その時は必死だったと思います。
大変運良く、この戦争で家族は一人も欠けませんでした。


この事で家屋を失い、祖父の実家(農家)の山形に疎開する事になりました。
が、直ぐに祖母の実家がある、新潟の村上市岩船町へ引っ越しました。
岩船大祭という絢爛華麗な祭礼屋台が練り歩く祭りで有名な港町です。


理由は定かでは有りませんが・・・
海辺育ちの祖母にとって、馬と同じ空間で寝泊りする祖父の実家は肌に合わなかった様で(汗)
今も昔も強い嫁は存在していたようですね(笑)
そのDNAなのか、我が親戚は女性(叔母達)が極めて強い・・・いや強すぎる(爆)


そんな経緯で岩船町が本家というか実家のようになり、父は中学卒業までこの地で生活する訳で。
皮肉にも疎開による新潟移住の為、戸籍は新潟にはありませんでした。
父の死後、戸籍謄本を見た際、たしかに新潟とは一文字もありませんでした。


そう言えば生前「俺は江戸っ子だ!」と豪語してた父・・・
ある意味納得です(爆)

長らくブログ更新をご無沙汰してしまい申し訳御座いません。
実は、今年7月18日午前3時29分、私の実父が永眠致しました。


何しろ葬儀を始め、初めての事だらけで何が何だか分からず・・・
色々と忙しい日々だった事もありますが、それだけが理由では無く、
死後49日間は『忌中』の慣例に遵ってブログも自粛させて頂いた次第です。


そして49日の法要も滞りなく済み、また本日より改めて普段の生活に戻ります。
当ブログも身勝手ながら再開させて頂く所存です。


父は今年の春、掛かり付けの病院で腹部大動脈瘤が見付かり、県立の血管専門の病院を紹介されました。
そこで7月13日に手術を受け、術後3日目に急変してそのまま逝ってしまいました。


「成功率99%の間違いなく成功する回復手術だ」と担当医からの説明でしたが、
死後の説明では急変の理由に関しては「分からない」との事でした。


享年69歳でした。
この年齢を「若くして残念」「十二分に生きた」と判断するかは考え方次第ですが、
私見では、志半ばで終えた人生は年齢に関係無く、誠に無念だと感じました。


「孝行のしたい時分に親はなし」とはよく言ったものですね。
こんな結果になった事で、今更ながらそれに気付いた自分自身に憤りを感じました。
人生において「後でいいや」は結果次第では後悔するものですね。


しかし後悔しても答えは出てきません。
これを機に改めて前向きに生きる決意をした次第です。
それが父への餞でもある訳で・・・


こんな事を書いていると、この鮨屋ファザコン??と思われてしまいますが(汗)
私にとっての父は鮨業での『親方』であり『相談役』でありました。
そして色々な意味での目標でもあった訳で。
それ故に今後も鮨業一貫を邁進せねばと感じる次第です。


それにして仏事に付き物の『おはぎ』ですが、現代っ子には不人気の様で。
家族の人数分貰ってきたのに子供達は「美味しくない」などと言って食べません(怒)
チョコやケーキが何時でも食べられる御馳走だらけ現代。
もはや『おはぎ』は御馳走では無いのでしょうね。。。


そんな『おはぎ』を食べながら、飽食世代の食文化に一抹の不安を感じつつ・・・
でも「ここの店よりもっと美味しい店に注文すれば良かったのに~」
などと呟く私も飽食世代と何ら変わらない様な。。。(爆汗)


テレビ番組業界も不況の波で揺れ動いている様です。
日本テレビの番組『世界まる見え!テレビ特捜部』の司会者の楠田枝里子さん。
番組制作費大幅削減の犠牲になって突然降板するとの事。


詳しくは以下でご確認を↓
http://ameblo.jp/uraurageinou/entry-10299753058.html


20年にわたって番組を引っ張ってきた自負もとプライド。
それによるギャラ引き下げの拒否。
番組降板を選んだ楠田さんには、共演者やスタッフからは同情的な声も。
芸能人も職人に類似してると感じました。


かたや地方の飲食業界は安売り合戦に突入した現在。
コンビニでさえ、その現状は免れない訳で。
消費者の現状を考えれば致し方ない事ですが。


現実とプライドの狭間で良選択を考え舵取りせねば・・・
と感じる今日この頃です。。。

先週からサンマが解禁しました。
初物ながら出だしは良好。
今年も豊漁になるのでしょうか。


海産物の資源減少が懸念される現状で、サンマ漁は唯一豊漁状態。
これはこれで良いのか悪いのか疑問なところですが・・・


先月流通し始めたコハダの稚魚の新子(シンコ)。
先日読んだ『すし屋の常識・非常識 』 に書いてありました。
著者による新子の異常な初値に対する警告が。


時代の流れでしょうか・・・
資源保護に対してか「新子を追わない」と宣言する鮨屋も現れたそうです。
将来を見据えた取り組みに鮨屋個人のレベルで考える時代になった様です。


資源保護の詳細は良く分かりませんが、
当店も2年程前から新子の早仕入を控える様になりました。
理由は常連様のニーズによる結果です。


鮨好きの常連様で、今日まで御贔屓にして頂いた当店ですが、
以外や以外、常連様の初物に対する意識が根強い訳では無い様です。


時代の流れでしょうか・・・
個々の価値観を重視されて召し上がる方が増えてきた様に感じます。
新子の異常な初値に閉口してるのは、鮨屋以上にお客様の方が敏感なのかも知れません。


それ以上に旬を大事にして、ネタの良い時期に召し上がる。
物珍しい初物より、自身の味覚や感性を大事にしてる様に思えます。
裏を返せば、純粋に素直に旬を楽しむ傾向なのでしょう。


それでも暫く経てば新子が多々出回る時期が来るので、当店も仕入れます。
やはり鮨独特のその時期の味を大切にしたいと一鮨屋として感じる訳で。


そして生物科学的な見解でコハダの資源枯渇が懸念されるのであれば、
将来を見据え資源保護の為に「新子を追わない」と宣言せねばと感じてます。
色々な意味で考えさせられる時代ですね(笑)

私ブログを書く身でありながら、あまり本を読みません。
元々無学な上に、興味の無い事は全く興味を持たない人間でして(汗)


先日、そんな私が珍しく興味を持って読みました。


『すし屋の常識・非常識 』 重金敦之(朝日新書)


今年の2月頃に初発行との事。
既に半年近く経過してますね・・・
そのあたりは御容赦を(謝)


読み終えた感想は、一鮨屋の立場でも一般の方でも楽しめる内容だと感じました。
鮨の歴史から現代の水産資源事情、穏やかながら少々辛口な的を得た意見。
色々な人々の鮨に対する想いやエピソードと、著者の鮨に対する想いが感じ取れました。
個々の価値観による解釈の違いはあると思いますが、嫌味無く読めると思います。


あくまで私感ですのでご容赦を。
何せ無学な素人の感想なので(汗)


私個人としてはお勧めの一冊ですね♪
普段本を読まない私が言っても説得力が無いかな(爆)