武士の弓矢の威力
昔の武士の弓矢の威力が想像以上に凄い。
弓矢の腕自慢の鎌倉武士は大抵二人張とか三人張と言われる強弓使いと言われた。三人張とは3人がかりでないと引けないほど強い弓を表し、鎮西八郎(ちんぜいはちろう)為朝(ためとも)は俗に五人張の強弓を使っていたと言われている。
鎮西八郎為朝こと源為朝は生まれつき身体が大きく、身長210センチほどあったとされ、弓を支える左腕が弓を引く右腕よりも12センチほど長かったため弓を引くのに適した体型だったようである。
鎮西八郎為朝は幼い頃から暴れん坊で、13歳の時に父・源為義(みなもとのためよし)に勘当され九州へ追放されたが、驚くべきことに13歳にして自ら鎮西総追補使(ちんぜいそうついほし)と称して暴れまわり、わずか3年ほどで九州を制圧してしまったという。
鎮西八郎為朝は百発百中の強弓が最大の武器で、その人間離れした強さは多くの武士たちに畏敬されたようだ。
保元の乱では敵方の平清盛の郎党・伊藤景綱の二人の息子である伊藤忠景・忠直兄弟に一矢を放ち二人いっぺんに貫いたという。この報告に平清盛は震え上がったという。
だが保元の乱では為朝が属した崇徳上皇側が負けたため、崇徳上皇側の大将で為朝の父・源為義とその息子たちは斬首され、為朝は逃亡していたが後に湯治している時に捕まった。
捕まった為朝は斬首された為義の息子ながらその武勇を惜しまれ、肘を外して弓を射ることが出来ないようにして伊豆へ流された。
だが伊豆へ流された後に再び弓が引けるようになるとまた暴れ出し、伊豆七島を支配するほどになったため朝廷から討伐軍が派遣され、多勢に無勢で死期を悟った為朝は息子を刺し殺し、せめて一矢報いたいと300人乗りの討伐軍の船を強弓で射て見事命中させ、沈没させたという。その後、為朝は館に戻り切腹して果てたという。
為朝伝説には更に続きがあり、琉球に逃げ延びて琉球王になったとする伝説もある。一矢で300人乗りの船を沈めた鎮西八郎為朝の強弓伝説を知っている僕にとってフライパンを射抜く威力に正直あまり驚かなかった。
鎌倉武士の弓の威力、恐るべしである。