琵琶湖の事件について | この美しき瑞穂の国

琵琶湖の事件について

琵琶湖の事件、男性2遺体が見つかった事件と琵琶湖岸で絞殺された男性の遺体が見つかった事件は別なのかな?僕の読解力が無いのか、同じニュースなのか別のニュースなのか区別出来ない。


琵琶湖の湖底は昔の鎧武者の遺体が見つかることもあるらしく、琵琶湖の捜索は怖いらしい。


そういえば日本武尊(やまとたけのみこと)の孫だった忍熊王(おしくまのみこ)は逢坂(あふさか:現在の滋賀県大津市の逢坂)で瀬田川に身を投げて亡くなったことを思い出した。


忍熊王は日本武尊の御子で第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の最初の妃・大仲姫(おおなかつひめ)を母とし、兄弟に香坂王(かごさかのみこ)がいる。


大仲姫は早逝されたので仲哀天皇は息長帯比売(おきながたらしひめ)を次の妃として迎え入れた(神功皇后)。


そして仲哀天皇が九州征伐の最中に突然崩御されると、神功皇后は天皇の崩御を隠して三韓征伐に赴き、これを下して凱旋した。


すると神功皇后がお腹の中の御子を次の皇位につけようとしていることに危機感を抱いた香坂王・忍熊王兄弟は筑紫より船で戻って来る神功皇后と皇子を亡き者にしようと兵を集めて播磨で待ち構えていたため、神功皇后は上陸せず難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を将軍として派遣した。


この一連の戦いの中で香坂王は赤い猪に食われて命を落とし、忍熊王はしぶとく戦って難波根子武振熊と決着がつかなかった。


そこで難波根子武振熊は一計を案じ、神功皇后とお腹の中の皇子は亡くなった、もう戦う意味は無くなったので和睦しようと提案し、剣を捨てて弓の弦を切った。


これを見て忍熊王も同じように弓弦を切って和睦に応じ、軍勢を引くと難波根子武振熊の軍勢は髪の毛の中に隠し持っていた弦を弓に張り直して後ろから忍熊王の軍勢に弓矢を散々に射掛けて奇襲をかけた。これにより忍熊王は敗退し、最後は逢坂で琵琶湖に流入する瀬田川に身を投げて亡くなったのである。


ちなみにこの時神功皇后のお腹に宿っていた皇子が後の第15代応神天皇である。



忍熊王に関する記事は以下を参照


中山寺 

中山寺奥の院 


劔神社 




忍熊王も絡むとなると・・・やはりまた琵琶湖に行かねばなるまい。