忍者が気になる | この美しき瑞穂の国

忍者が気になる

昨日の記事爪の再生 の中で何気なく戸隠(とがくれ)流忍法体術の名を出したが、忍者といえば先週土曜日の「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」で出川さん御一行が宿泊した滋賀県甲賀市のホテルのフロントの方々が翌朝忍者姿で出迎えるシーンがあったことを思い出した。



忍者は室町時代から江戸時代初期にかけて大名や領主に仕え、または独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、謀術、暗殺などの裏仕事をした者、集団のことである。

一般的に忍者といえば黒装束で忍者刀を背負い、手裏剣を投げる姿を想像するが実際はひと目で忍者とは分からない姿をして敵国等に紛れ込み、目立たないよう活動をしていたようである。


戦国大名が使った忍者の呼称は武田家の場合は三ツ者(みつもの)、上杉家は軒猿(のきざる)、北条家は風魔(ふうま)忍者(※頭領は風魔小太郎(ふうまのこたろう))、徳川家康は伊賀忍者と甲賀忍者(※頭領は服部半蔵)等が有名だ。


そもそも忍者とは飛鳥時代に聖徳太子が大伴細人(おおとものさびと)を志能備(しのび)として使ったのが始まりとする説がある。

そして聖徳太子に仕えた秦氏の子孫が伊賀忍者の頭領服部家で、甲賀忍者は大伴氏の子孫で山窩(さんか)と云われる民であるという話を見つけた。この話の信憑性のほどは定かではないが、更に面白い話がある。

南北朝時代の南朝方の英雄・楠木正成の妹は伊賀の服部氏に嫁ぎ、能楽(猿楽)の祖・観阿弥を産んだという。そして観阿弥の子が世阿弥である。

楠木正成は悪党と云われ様々な奇策を用いて足利尊氏を悩ませたことが知られるが、楠木正成を忍者の始祖とする説もあるらしい。ちなみに足利尊氏はさんざんに己を悩ませた楠木正成のことを憎むどころかとても尊敬していた。

また豊臣秀吉は貧農の生まれではなく山窩の頭領格の家柄の出だという話もある。豊臣秀吉は情報収集能力が高く、織田信長に仕えていた際はいつも主語が欠けて何を言わんとしてるかよく分からない信長の意を汲み取るのが得意だったといわれている。

それは秀吉が信長の動向を常に探っていたからではないかと考えると、山窩の頭領格とする説も真実味を帯びてくる。秀吉が敵国の武将の調略や時間の掛かる城攻めを最も得意としたのは忍びの者をうまく使っていたからなのではないか。


また秀吉は大規模な土木工事をあっという間に成し遂げる技術者集団を傘下に収めており、墨俣一夜城や石垣山一夜城、備中高松城の水攻め等の大規模工事を得意としていた。秀吉は石垣山一夜城を築き、北条氏の小田原城を大軍で囲みながら何年でも包囲し続けられるという余裕を演出するスケールの大きな仕事と心理戦により上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城を落としたのである。 


そして豊臣秀吉の後に天下を取った徳川家康は伊賀忍者と甲賀忍者を指揮していた服部半蔵を家来とした。服部の本姓は秦氏、徳川家(松平家)は自称本姓を源氏としていたが本当は賀茂氏の末裔ではないかとする説がある。


賀茂氏と秦氏といえば賀茂の厳神(げんしん)・松尾の猛霊(もうりょう)、東の賀茂社・西の松尾社と並び称され、また賀茂氏と秦氏は姻戚関係で結ばれていた。この両氏はスピリチュアルの世界ではまことしやかに囁かれる秘密結社・八咫烏に関係があるとされるが果たして…?徳川を賀茂氏とすると、賀茂氏と秦氏(服部)のタッグというのが興味深い。


忍者についてとりとめもなく綴ってしまったが、今はどうも【忍者】のワードが気になるのである。


今後引き寄せがあるかもしれないので備忘録としてこの記事を残しておこう。