2023年2月岡山旅(まきび公園) | この美しき瑞穂の国

2023年2月岡山旅(まきび公園)

2023年2月11日岡山県倉敷市の阿智神社をお参り後、真備(まび)町にあるまきび公園を訪れた。
(※先の記事で吉備真備公園と勘違いしておりましたが正しくは「まきび公園」です。)


そしてまずはまきび記念館(拝観無料)を拝観


まきび記念館では観光ボランティアガイドのおじいさんがいろいろ説明して下さった。

吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の学者、公卿で下道朝臣(しもつみちのあそん)の一族である。下道朝臣は吉備国開拓の祖の第7代孝霊天皇の皇子であられる大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の子孫にあたるため、吉備真備は皇別氏族である。


吉備真備の出身地は現在の岡山県真備町辺りとされ、霊亀2年(716)に第9次遣唐使の留学生となり、翌年に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や玄昉(げんぼう)らと共に唐に渡って様々な学問を18年間学んだという。


この当時遣唐使船で唐に渡るのは命懸けであり、大陸へ向かうにあたって良い風が吹くまで何日でも風待ちをして良いが吹くと出航し、航海中の遣唐使船の揺れは殺人的なほどだったという。


そして遭難・難破して無事に辿り着けないこともあり、無事に辿り着いて唐で学び、帰国する際も無事に日本に辿り着けるとは限らなかった。


ボランティアガイドのおじいさんによると遣唐使が船出から唐の都・長安に到着するまでは数ヶ月から半年ほど掛かり、吉備真備の頃は博多から出航して中国の揚子江口へ向かう航路が採られ、無事に揚子江口に着いたらしばらく大河を船で行けるところまで進み、船を使えなくなったら後は陸路をひたすら歩いて長安に向かったのだという。

おじいさんによると空海が遣唐使として大陸へ向かった際には船が揚子江口よりも大分南の方へ流されてしまい、漂着した地点から徒歩で揚子江口まで向かったと語っておられた。


遣唐使船は一隻につき120〜160人乗りで船の左右の弦には船を漕ぐ水夫たちが配置され、奈良時代には4隻編成で500〜600人ほどの使節団として派遣されたようだ。

この航海では先にも書いたが殺人的といえる揺れに伴う船酔いや食糧・飲水の枯渇の問題もあり、航海中に病にかかった者は異国へ置いていかれるなど様々な困難があったそうだ。


まきび公園内にある吉備真備の菩提寺・吉備寺


吉備真備は阿倍仲麻呂と共に唐では知識人として名を馳せ、特に阿倍仲麻呂は唐の玄宗(げんそう)皇帝に大変気に入られて側におかれ、帰国することを許されず唐で客死した。


吉備真備は経書、史書、天文学、音楽、兵学など幅広く学んで天平6年(734)に帰国すると翌年に帰朝して次第に重用されるようになり、藤原四兄弟が相次いで流行り病で亡くなると政治的空白から橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任命されて政権を握ると、玄昉と共に橘諸兄に抜擢されて出世する。

しかし後に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が台頭して仲麻呂が橘諸兄を圧倒するようになると吉備真備は左遷され、天平勝宝4年(752)には二度目の遣唐使として唐に渡った。



二度目の渡唐では玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂の尽力により唐で厚遇され、翌年に阿倍仲麻呂を伴って帰国することになる。だが阿倍仲麻呂の乗った船はベトナムのほうへ漂着してしまい、帰国を断念した阿倍仲麻呂は唐に戻って生涯を閉じたという。



吉備真備二度目の渡唐には唐の高僧・鑑真和上(がんじんわじょう)を招聘するという任務もあり、鑑真和上は遣唐副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)によって帰国の遣唐使船の第二船に内密に乗せられて日本に渡った。
(吉備真備は第三船に乗船)

ちなみに鑑真和上は743年から何度も渡日を試みており、その度に船が暴風により漂流したり渡日計画がばれて止められたりなど五度失敗し、その最中に両目を失明するという困難がありながらも753年に六度目の渡航でついに日本へ渡ってこられたのである。



吉備真備は二度目の遣唐使から帰国後も相変わらず左遷状態だったようだが、吉備真備を冷遇した藤原仲麻呂の乱が起こると再び重用されるようになり、最終的には右大臣にまで昇った。学者の家系で右大臣にまで昇るのは家格からして異例のことであった。ちなみに同じ例としては後の菅原道真もいる。



そして神護景雲4年(770)吉備真備を重用した称徳天皇が崩御されると、その後に即位された光仁天皇に老齢を理由として引退を申し出たが遺留され、それでもその翌年に再度引退を申し出て許されたという。

その後の吉備真備の足跡は不明で、祖国の吉備に戻って余生を過ごしたとする説もある。



吉備真備は学者・政治家としてだけでなく様々な才能に恵まれていたよう方だったようだ。

真備は兵法にも通じ、唐で囲碁の名人と勝負した際にこっそり碁石を飲み込んで勝ったという逸話もある。この時は占いにより真備が碁石を飲み込んだと出たので唐人たちが躍起になって碁石を吐き出させようとしたりして懸命に無くなった碁石を探し回ったが結局見つからず真備の勝ちとなったそうだ。

そして真備は囲碁を日本に伝えたのである。

他にも吉備真備はカタカナの発明者であり陰陽道の祖であるといわれている。山陽地方から京都の八坂神社の辺りまでの牛頭天王を祀る祇園信仰は吉備真備が唐より持ち込んだものだといわれている。


このように吉備真備は様々な才能に恵まれ、また様々な学問・文化などを日本に伝来させた偉人なのであった。


吉備真備の墓


まきび公園の一角にある八田神社の裏には吉備公廟という吉備真備の墓がある。ここでは観音経を唱えてお参りすると爽やかなそよ風が吹いた。

一度の遣唐使でさえ命懸けの大変な旅であったであろうに二度も遣唐使として渡唐し、多くの先進的な学問や文化を日本にもたらした功績はあまりにも大きい。


今回の岡山旅に至る様々な示しを総合すると吉備大臣に集約されるように感じて縁の地を訪れたのであった。


まきび公園を後にする前に付近の地図案内板を見に行くと、なぜかタケノコのオブジェがあった。


真備町はタケノコや竹細工が名物であるらしい。なんとも意味深なことだ。


まきび公園では観光ボランティアガイドのおじいさんのおかげでいろいろ学ぶことが出来て有意義な時間を過ごすことが出来た。どうもありがとうございます。


まきび公園の次は下津井祇園神社に向かった。

(つづく)