2018吉野の旅(前編) | この美しき瑞穂の国

2018吉野の旅(前編)

2018年9月23日奈良県の吉野山を旅した。


近鉄吉野駅に着き、まずは中千本までのバスの時刻表を観に行ったところ、現在バスの運行は休止されていた。しかも中千本行きのロープウェイも休止中なので、タクシーか徒歩で巡るしかなかった。ゆえにまずは駅から中千本へ向かった。


駅から登ること10分、吉野山の黒門へ到着。



黒門を潜ってしばらく進むと銅(かね)の鳥居がある。




銅の鳥居は奈良の大仏を鋳造した際に余った銅で造られたと云われている。だが初代銅の鳥居は南北朝時代に足利尊氏の家来・高師直(こうのもろなお)の兵火によって焼け落ち、後に再建されたものである。


銅の鳥居を潜り、更に進むと修験道の総本山・国軸山(こくじくざん)金峯山寺(きんぷせんじ)がある。


蔵王堂(本堂)


金峯山寺は7世紀後半に修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)によって建立されたと伝わる。御本尊は三体の金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)。



金剛蔵王権現の由来には諸説あるがそのうちの一つの話である。


役行者(えんのぎょうじゃ)が末法の世における衆生たちを救う神仏を求めて祈ると、最初に弁財天が現れた。しかし役行者は弁財天では優しすぎると考えて見送ったため、それを察した弁財天は天河に翔び去ったという。これが天河大弁財天だと伝わる。


次に地蔵菩薩が現れたが、地蔵菩薩は慈悲の菩薩ゆえ、もっと荒々しい神仏を求めて更に祈ると最後に髪を逆立てた憤怒形の恐ろしげな仏神が雷鳴と共に現れた。これが金剛蔵王権現である。


役行者はこれこそ末法の世にふさわしい神仏であると悟り、桜の木にその御影を刻んで祀ったという。この縁起から吉野では古より桜を大事にしてきたのである。


蔵王堂では役行者真言と蔵王権現真言を唱えてお参りした。


役行者真言

おん ぎゃくぎゃく えんのうばそく あらんぎゃ そわか


蔵王権現真言

おん ばさらくしゃ あらんじゃ うん そわか



蔵王堂をお参りし、吉野山を登るべく更に歩進めた。

そして導(みちびき)稲荷にお参り。




延元元年(1333)足利尊氏により京に幽閉されていた後醍醐天皇は秘かに京を脱出して吉野を目指され、この年の12月に吉野の行宮に入られたが途中夜道で道に迷ってしまわれた。



そこで途中にあった稲荷の社の前にて


むば玉の  暗き闇路(やみじ)に迷うなり

我に貸さなむ  三つの灯し火


と歌を詠まれると、ひとむらの紅い雲が現れ、吉野への道を照らして後醍醐天皇を導き、その雲は金の御岳(吉野山)の上空で消え失せたという。このように道を迷われた後醍醐天皇を吉野まで無事に導いたので導稲荷という。蔵王堂をお参りする際には必ずここにもお参りする。



東京新宿の総鎮守・花園神社はこの導稲荷を勧請した神社である。


導稲荷お参り後は近年吉野詣での際に朝食に訪れる豆腐茶屋・林へ。


ここは吉野の林とうふ店で作る豆腐を使用した料理を提供する店である。料理は全て精進物なので、お参り直前でも気兼ねなく食べられる。ちなみに僕のお気に入りは豆腐ハンバーグ膳である。


精進物ながらボリュームがあり、腹持ちがよいので吉野山を歩き回るのに最適なメニューだ。


腹ごしらえを済ませると、まずは吉水神社へ向かった。


吉水神社は兄・源頼朝に追われた源義経が一時身を隠していた場所であり、社殿内には義経所縁の品々が収蔵されている。


また、南北朝時代に南朝の後醍醐天皇が仮の皇居とされた場所でもある。それゆえに後醍醐天皇所縁の品々も収蔵されている。


今回は久々に内部を拝観させて頂こうと思っていたのだが、御朱印を求める人々の長い列があって社務所の宮司様が忙しそうだったので止めておいた。


こちらの宮司様は白く立派なあご髭を蓄え、厳格そうなその風貌は古代大和の大人(たいじん:徳の高い立派な人)のような風格がある。以前友人と吉水神社にて大祓詞を奏上してお参りした際に、この様子を見ていた宮司様から直接ご指導を頂いたことがある。


その際『君たちのお参りの仕方は正しい。ただ、最後のお辞儀の際には90度に頭を下げて約1分間頭を下げるともっと宜しい。』とご指導頂いたのである。それ以来、二礼二拍手の後の一礼は気持ち長目に頭を下げるようにしている。


吉水神社お参り後は、今回の吉野詣での最大の目的地を訪れた。


井光山(いひかやま)善福寺(ぜんぷくじ
)


この寺には神武天皇東征の際に吉野入りした天皇の元へ馳せ参じた国津神・井氷鹿(いひか・いひかり)が現れた井戸とされる井光の井戸がある。


この井戸がどこにあるのか探して境内をウロウロしていると、住職さん(尼さん)が声を掛けて下さり、井光の井戸の所在地を教えて下さった。この井戸は善福寺の裏手の谷にある。


井光の井戸


吉野には井光の井戸と比定されるものが少なくとも三箇所あるそうで、そのうちの一つである。ここは以前ある友人がこの善福寺の宿坊に泊まって知り、僕に教えてくれたので覚えていたのである。


井氷鹿は光る井戸から出てきた神とも、井戸から出てきた光る神とも云われ、どちらの解釈をとるべきか分からないが国栖人のように尻尾が生えていたといわれている。ゆえに井氷鹿は国栖人と同族の土蜘蛛とされていた種族だったのだろう。



善福寺の裏の谷は鬱蒼とした森林だが、なぜか井光の井戸の部分だけに木漏れ日が差しており、とても神々しかった。ここでは火水埴の清祓いを奏上し、天地を貫く光の御柱が立ちますように祈った。


井光の井戸のお参り後は櫻本坊へ立ち寄った。




天智天皇からの迫害を恐れて吉野へ逃れた大海人皇子(おおあまのみこ)が美しく咲き誇る桜の夢を御覧になり、役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に夢判断させたところ、桜は花の王ゆえ皇子が天皇になられる吉夢と判断したという。


その後、大海人皇子は壬申の乱で大友皇子に勝利され、吉夢通り天武天皇として即位された。そして即位後に吉野へ行幸された折に夢で観た桜をご発見され、ここに一寺を建立された。これが櫻本坊である。


この日、櫻本坊では法螺貝の吹き方の練習をしている方がいらっしゃった。山伏修行をされている方だろうか。それゆえ邪魔にならないように静かにお参りして櫻本坊をあとにした。


櫻本坊よりしばらく進むと、吉野山上の奥千本行きのバス停がある。だが現在このバスは運行休止していた。それゆえ当初奥千本まで行って金峯神社にお参りしようと思っていたが、今回最大の目的地・井光の井戸に行ったので奥千本まで行かずに途中の上千本の吉野水分(みくまり)神社までで妥協しようかという迷いが生じた。


さてどうしよう・・・取り敢えず行けるとこまで行ってみようということで意を決して上千本方面へ歩を進めたのであった。


(つづく)