2012年GWの旅(大原三千院) | この美しき瑞穂の国

2012年GWの旅(大原三千院)

2012年5月3日京都府京都市左京区大原の大原三千院を訪れた。

京阪線出町柳駅そばのバス停より10番・16番・17番の大原行きバスに乗り、終点大原下車徒歩10分ほどである。


バス停から大原三千院に向かう道沿いには土産物店、茶屋、食堂、漬物屋が軒を連ねており、店をのぞきながら歩くのがなかなか楽しい。

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漬物屋が多かったので、帰りにすぐきの漬物としば漬を買った。すぐきの漬物はとても美味しかった。


大原三千院。

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三千院御殿門。

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拝観料700円を払って入山すると途端に素晴らしい景色が目の前に広がる。

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三千院には聚碧園(しゅうへきえん)と有清園という古庭園がある。

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地面が青苔で覆われた庭園は手入れがよく行き届いており実に美しい。

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客殿の縁側に座りながら美しい庭を眺めると時を忘れてしまいそうになる。紅葉の季節には更に美しいそうだ。

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魚山(ぎょざん)三千院は天台宗の門跡(もんせき)寺院である。門跡寺院とは位階の高い寺院のことである。かつては出家した皇族や貴族が住職を務める寺院のことを指していたが、後に位階の高い寺院を指すようになった。


三千院は伝教(でんきょう)大師最澄が比叡山に建てた一宇に始まり、その後比叡山東麓の坂本に移ったが、更にあちこちに移転し明治4年(1871年)現在地に移ったという。

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三千院の御本尊は薬師如来。昔、三千院の建つ大原の里は貴人や仏教修行者の隠棲した地であった。平清盛の娘で安徳天皇の母であった建礼門院(けんれいもんいん)徳子が平家滅亡後に京都祇園の長楽寺で出家し、後に大原の寂光院で安徳天皇と平家一門を弔う余生を送ったという。

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今回三千院を訪れたのは秘仏金色不動明王を拝観する目的と建礼門院の御陵をお参りする目的があった。

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金色不動堂の御本尊である秘仏・金色不動明王は鎌倉時代の木造造の立像である。平安時代前期の高僧・智証大師(ちしょうだいし)円珍(えんちん)が比叡山で籠山修行中に現れた金色不動にちなんだものだという。


円珍は弘法大師空海の遠い親戚に当たる人物であり、幼少の頃より非凡な才能を発揮したので空海は円珍がいずれ高野山に登ることを望んだといわれているが、なぜか高野山ではなく比叡山に登り仏門に入った。


そして籠山修行の5年目(838年)の冬のこと、石室で座禅をしていた円珍の目の前に魁偉奇妙(かいいきみょう)な金人(きんじん)が出現し、


『我は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし。』


と告げ、その尊容を描き常に礼拝するように命じたという。円珍は直ちに画工に語って金色不動明王の姿を写し取らせたという。以後、円珍に危機迫るときには金色不動明王が必ず影現し円珍を守護したといわれている。


2009年2月15日、都内のサントリー美術館の『国宝三井寺展』にて金色不動明王像を見て感動したことから三千院の秘仏・金色不動明王像も是非一度観たかったのである。

(関連記事)

(2009年1月18日『三井寺』)

(2009年2月15日『国宝三井寺展』)

(2011年10月16日『星を追う旅(金倉寺)』)


秘仏・金色不動明王像を拝しながら不動明王真言(慈救呪)を唱え、関西地方の平和を祈った。


不動明王真言(慈救呪)

のうまく さまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん



秘仏の経年劣化による色落ちがかえって荘厳さを感じさせた。これこそわびさびの美である。


金色不動堂をお参りした後、観音堂にお参りした。


観音堂。

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みずみずしい新緑あふれる庭園の中、観音堂やその手前の赤が実に映えて美しかった。


三千院の美しい庭園は一見の価値ありだ。また紅葉の季節に訪れてみたい。



三千院をお参りした後、大原寂光院そばにある建礼門院の御陵に向かった。三千院より徒歩10分ほどである。

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建礼門院大原西陵。

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建礼門院(けんれいもんいん)徳子(とくこ)は平清盛の二女で平家全盛期に高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んで国母となった。

しかし以仁王(もちひとおう)による平家追討の令旨が下されると各地で源氏や寺社勢力が平家打倒に蜂起、やがて平家は源氏に壇ノ浦に追い詰められて敗北すると二位尼(にいのあま:平時子(たいらのときこ:建礼門院の母))が安徳天皇を抱いて入水した。続いて建礼門院も海に身を投げたが源氏方に助けられて命拾いをした。

その後建礼門院は京都祇園の長楽寺で出家し、大原寂光院に移って粗末な草庵に住し、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら余生を送ったという。


2007年夏に京都へ行った際、たまたま長楽寺に立ち寄ったのだが、この寺は安徳天皇の母・建礼門院が仏門に入られた寺だった。

長楽寺には安徳天皇ゆかりの品々や、建礼門院の像があった。この建礼門院像はまるで魂が宿っているかのようだった。御像の前に座し、目を合わせると反射的に畳に額をこすりつけてしまい、しばらく頭を上げることが出来なかった。


この時、建礼門院像を前に

『いずれ赤間神宮に参りますので平家一門の供養をさせて下さい。その際には何卒建礼門院のご助力を頂けますように。』

と誓ったのである。この縁をもって2008年5月2日赤間神宮にお参りしたのだが、なんとこの日は奇しくも安徳天皇の御命日であった。


(関連記事)

(2009年7月15日『赤間神宮』)

この時以来、いずれ必ず建礼門院の墓所を訪れたいと思っていたのである。それゆえ今回は念願叶ったお参りであった。


この日の大原は曇りがちの天気だったのだが御陵の前に立つや途端に晴れ上がった。墓前にて観音経、般若心経、南無阿弥陀仏の念仏を唱えて建礼門院に回向した。


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昔建礼門院に仕えていた建礼門院右京太夫という女流歌人が大原寂光院の庵を訪ねた時、その庵室や住まいの様子は目も当てられないほどひどく、都では栄華を極めて色鮮やかな着物を重ね着した美しい女房たちが60人も仕えていた建礼門院がひどく落ちぶれてしまったことに涙したという。


建礼門院右京太夫は高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)に出仕した際、天皇と中宮の美しい姿に感激して


雲の上にかかる月日の光みる身の契りさへうれしとぞ思ふ


と詠じたという。それゆえに落ちぶれた建礼門院の姿は見るに耐えなかったのだろう。驕れる者久しからずただ春の夢の如し・・・諸行無常なり。



建礼門院西陵に念願のお参りをした後、寂光院には立ち寄らず近くの宿で日帰り入浴をして2012年GWの旅を締めくくった。京都、奈良、大阪、兵庫、和歌山、最後にまた京都を駆け足のように巡った旅を振り返りながら湯船の中で思い切り手足を延ばすと長旅の疲れがすっかり癒された。


今回はあまり時間が取れなかったが大原の里にはいずれ再訪し、次回は建礼門院の終の棲家となった大原寂光院を訪れたい。紅葉の頃に訪れたらさぞ美しいに違いない。


その際には長楽寺にも再訪したいと思う。


(2012年GWの旅 完)