究極の神社 | この美しき瑞穂の国

究極の神社

僕は十数年にわたって様々な神社仏閣をお参りしてきた。

様々な神社仏閣に目的を持ってお参りし、いろいろな経験をしてきた。過去のお参りの全ては今となっては良い想い出だ。


想い出深い神社仏閣は数多くあるが、その中でも究極の神社はどこかと問われれば、それは『人間』自身だと答える。


神は山川草木、森羅万象、自然の至るところに遍在している。古より人間はそうした自然の中に宿る神を崇拝してきた。人間は長いこと神を人間とは別の崇高で畏怖すべき存在として信仰してきた。


しかし、人間は神が御自身の姿に似せて作られた存在であり、神の生き写しなのである。そして人間の究極の姿は己の胸(六根)の内に神を宿した姿であると考える。これは神人合一というものである。


神人合一を果たした人として名を知られているのは我が敬愛する黒住宗忠とイエスキリストだろう。


イエスキリストはヨハネの洗礼により天からの聖霊を受けて様々な奇跡を起こす聖人となったが、後にイエスの使徒たちもまた聖霊に満たされて真理に目覚め、異言を話したり様々な奇跡を起こしたりしている。これは黒住宗忠が文化11年11月11日に昇る朝日を拝んでいた時に太陽が口の中に飛び込む神秘体験をした後に様々な病気治療等の奇跡を行なえるようになったことと同じなのだろう。


では己の内に神を迎えいれるためにはどうしたらよいのだろう。それは神の御心と己の心を同化させることなのだと考える。


しかし神にとっては自我の無い自然の存在には宿りやすいが、人間のように自我の強い存在には宿りにくいらしい。それゆえに大昔から自我の滅却を目指して厳しい修行に打ちむ人々がいた。しかし厳しすぎる修行は万人には向かない。


そうなると自我の滅却を目指すよりも己の心を神の御心に徐々に近づけていくことのほうが容易なのではないか。そこで最近『神の御心とはなんぞや?』と考えていた。


神の御心に近い『心』とは・・・それは生あるもの、あらゆるものを『かわいい』と思う心なのではないか。


人間には善悪の概念があるので善人は神にかわいがられ、悪人は神に憎まれると考える。しかし実際のところ自然は人の善悪によって与える恩恵に差をつけたりはしない。だから人間視点で見れば『憎まれっ子世に憚る』という状況がしばしば起こりうる。しかしこれは神が善人も悪人も分け隔てなく全てを『かわいい』とお思いでいらっしゃるからなのだとしたら理解出来る。


イエスキリストの『汝隣人を愛しなさい。』や『汝の敵を愛しなさい。』という教えは己の心を神の御心に近づけるための方法なのではないだろうか。そのようにして神の御心と己の心が一致した時に神人合一が起こるのではないか。故に人間自身、己が身こそが究極の神社なのだと思うのである。


全ての人間は究極の神社である。故に人の命も自分の命も決して粗末にしてはならない。神仏に通じる霊能者が特別なのではない。全ての人間が特別で大切なのである。