2012年GWの旅(須磨寺) | この美しき瑞穂の国

2012年GWの旅(須磨寺)

2012年5月1日平家の供養に兵庫県神戸市須磨区の須磨寺を訪れた。


須磨寺へ向かう途中にある史跡・平重衡(たいらのしげひら)とらわれの松跡。

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平重衡は源平合戦の際の平氏家方の副大将で、平氏の根拠地福原の東方の生田の森を守備していたが、一ノ谷の合戦で源義経の奇襲等によって平氏方は総崩れとなり、我先に海上へ退却したという。そのため重衡も西へと落ち延びて須磨寺近くへとたどり着いたが、この地で源氏方に追いつかれて生け捕りにされたという。捕らえられた平重衡公は、松の根に腰を下ろして悲嘆に暮れたという。その様子に同情した地元の人が一杯の濁酒を献上したところ、平重衡公はとても喜んで歌を詠んだという。


ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨で飲むこそ 濁酒なれ


その後重衡は鎌倉に護送されたが、かつて重衡に東大寺の大仏殿を焼き払らわれた恨みを持つ宗徒たちからの身柄引き渡し要求により、東大寺の使者に引き渡されて木津川のほとりで斬首されたという。なんとも哀れなことだ。



JR須磨駅より徒歩15分ほどで須磨寺に到着。

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仁王門。

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開放的な広い参道を進むと左側に『源平の庭』というモニュメントがある。


源平の庭。

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平氏は木曾義仲により京都を追放されたが、更に平氏を追った義仲は不慣れな水戦で水戦慣れしていた平氏に大敗した。大敗した義仲は勢力が急落したため、見限った後白河法皇が源頼朝を頼ると、怒った義仲は法皇を幽閉してしまう。その義仲は源頼朝が派遣した源範頼(みなもとののりより)、義経らに討伐された。


源氏の内紛の間に勢力を蓄えた平氏は福原を本拠地として数万の兵力を擁するほどまでに盛り返した。


そこで源頼朝は平家追討のため源範頼、義経らを派遣した。はじめ平氏方の守備は固く、各地で源平は激戦を繰り広げた。平氏方の抵抗は激しく一進一退の攻防が続いた。その最中、一ノ谷を守る平氏方の裏手に回った源義経と精鋭70騎は断崖絶壁を騎馬で駆け下りて奇襲をかけたという(この奇襲は鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落としといわれている。)

すると思いも依らぬところから義経ら精鋭に急襲された平氏軍は大混乱し、我先に須磨浦の海上に浮かぶ船へと逃げ出した。その際に溺死者が大勢出たという。


これにより勝敗は決したが源氏方の豪の者、熊谷直実(くまがいなおざね)は須磨浦で海に逃げる平家武者を見つけ『返せ、返せ。』と言って一騎討ちを挑んだ。


するとその平家武者はとって返し熊谷直実と組み合った。しかし歴戦の強者である熊谷直実に容易く組み伏せられてしまった。直実は平家武者の首を取る前に兜をとって顔を見ると、公家の薄化粧をした美少年であった。


直実は若武者に名を問うたが首を刎ねよと答えるのみで名乗らなかったという。この若武者はまだ齢16の平敦盛(たいらのあつもり)であった。その時、直実にも16歳の息子がいたので敦盛を憐れに思い、逃がしたいと考えたが、逃がしても逃げ切れずに他の源氏武者に討たれるだろうと思い、直実は泣く泣く敦盛の首を刎ねたという。


その後、世の無常を感じた熊谷直実は出家して高野山に入り、平敦盛を供養したという。そして浄土宗の祖法然(ほうねん)上人に弟子入りしたという。戦とはなんと悲しきことか。


源平の庭を眺めた後、本堂へ向かう。


唐門。

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本堂。

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上野山(じょうやさん)須磨寺(すまでら)は真言宗須磨寺派の大本山で本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおをぼさつ)。


平安時代初期、ある漁師が和田岬の沖で聖観世音菩薩像を引き上げたという。そして仁和2年(886年)に聞鏡上人が尊像を現在地に移したのが須磨寺の創始であるという。


本堂前にて平氏一門への供養の想いを込めて般若心経、観音経、聖観世音菩薩真言を唱えた。


聖観世音菩薩真言

おん あろりきゃ そわか


その後、本堂から敦盛卿首塚に向かった。その途中にある義経腰掛けの松。

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三重塔。

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敦盛卿首塚。

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一ノ谷の合戦で寿永3年(1184年)熊谷次郎直実によって首を討たれた平敦盛(享年16)を供養するために建立されたという。敦盛は横笛の名手だったといわれており、遺品の笛は須磨寺に奉納されているという。

もし戦のない太平な世であったのならば美しい笛の音を響かせてくれたものを・・・なんとも無常である。


敦盛卿首塚の前にて供養の想いを込めて般若心経、観音経を唱えた。


歴史上、勝者は正史に名を遺し、敗者は闇に葬りさられてしまう。しかし敗者にも歴史がある。華々しい歴史の裏には闇に葬り去られた悲しい歴史もあるということを忘れてはならない。


若くして尊い命を失った敦盛公が奏でる美しき笛の音色が多くの天人たちを楽しませてほしいと願っている。