信濃比叡広拯院 | この美しき瑞穂の国

信濃比叡広拯院

2010年6月19日日本武尊ゆかりの長野県下伊那郡阿智村智里園原の神坂峠にある信濃比叡(しなのひえい)広拯院(こうじょういん)に行った。


JR飯田駅からレンタカーで約一時間、昼神温泉(ひるがみおんせん) を通って信濃比叡広拯院に到着。


到着すると台座7m、本体6mの大きな伝教大師(でんきょうだいし)像が迎えてくれた。

この美しき瑞穂の国-201006191217000.jpg

伝教大師最澄(さいちょう)は日本の天台宗の開祖であり、比叡山延暦寺を開いた僧である。


最澄は近江国滋賀郡に生まれた。最澄は幼少の頃より秀才で、12歳(778年)の時に近江国分寺に入り、14歳で得度して最澄を名乗る。

17歳の時に正式な僧侶の資格を得た。19歳の時には東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受け、以後生家に近い近江国の比叡山に山籠りして修行にあけくれた。


31歳の時(797年)には天皇お付きの十人の祈祷僧である内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)の一人に任命された。


最澄はそれほどに地位のある優れた僧でありながら当時の南都(奈良)仏教界の腐敗を憂い、唐(中国)に渡って天台の教えをより深く学びたいと欲して入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう)に志願し、36歳の時(802年)に留学僧に選ばれた。


そして38歳の時に九州より遣唐使船で唐に渡った。


この時の同じ遣唐使の留学僧には高野山を開いた日本の真言宗開祖・弘法大師空海もいた。空海は若い頃は私度僧(しどそう:国家から正式に認可されていない僧)として山林修行に明け暮れたという当時は無名の僧であった。


当時、船で唐に渡ることは命懸けであった。船は荒波に遭えば木の葉のように大きく波間に踊り、その揺れの凄まじさは殺人的ですらあったという。


そして船の進路は風まかせ、潮まかせだから無事に目的地に着く保証はなく、目的地と違う場所に着いたり、途中で難破、沈没してしまう船もあったのである。


そんな時代の事であるから『学ぶ』ことは正に命懸けであった。今の時代の学びとは覚悟が違うのである。


無事に唐に渡った最澄は天台山で天台教学を学び、他にも禅、また当時の唐で流行していた密教なども学んで帰国。


それより後に唐で密教を専攻して深奥を極め尽くした空海が帰国すると、空海の持ち帰った密教が最澄の学んだ密教よりも遥かに凌駕していることを素直に認めて、最澄は自分の弟子たち共々空海に弟子入りした。

しかし最澄は次第に多忙になって空海より直に教えを学ぶことが困難になり、密教の経典『理趣釈経(りしゅしゃくきょう)』を拝借しようとしたところ、空海より『ただ読むだけではなく、直に師より学ばなければ理解は出来ない。』と拒絶され、以後両者の間に確執が生まれて関係が断絶した。


それでも最澄が密教の深奥を求める想いは弟子たちに受け継がれ、比叡山第三世座主(ざす)慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)や第五世座主智証大師(ちしょうだいし)円珍(えんちん)などの名僧たちによって熟成した。



最澄と空海、同時代を生きた二人の天才はなにかと比較され、空海の方が格上と見る向きが強い。しかし、最澄のあらゆる優れた教えを柔軟に取り入れる姿勢が天台宗を日本仏教界の母にしたといっても過言ではない。


比叡山からは融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)の開祖良忍(りょうにん)、浄土宗の開祖法然(ほうねん)、浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)、臨済宗の開祖栄西(えいさい)、曹洞宗の開祖道元(どうげん)、日蓮宗の開祖日蓮など名だたる名僧が輩出された。



伝教大師像の前にて偉大なる伝教大師を讃え、『南無伝教大師』と唱えてお参りした。


信濃比叡の根本中堂へ向かう。

この美しき瑞穂の国-201006191218001.jpg


根本中堂。

この美しき瑞穂の国-201006191219000.jpg

弘仁8年(817年)伝教大師最澄が神坂峠(みさかとうげ)を越えて美濃から信濃に入った際に、あまりにも険しい峠道に自分自身が大変苦労した経験から、峠を通る旅人の為に美濃国側に広済院(こうさいいん)、信濃国側に広拯院(こうじょういん)という布施屋(無料宿泊施設)を建てたという。


根本中堂より後方にある月見堂が広拯院の跡だと云われている。


広拯院月見堂。

この美しき瑞穂の国-201006191224000.jpg

月見堂は昔から文人たちが仲秋の名月を愛でたという。


車でも険しいと感じる神坂峠の道を人馬が越えるのはさぞ難儀なことだったに違いない。そんな難儀を実感して布施屋を建立した伝教大師の慈悲深さに深く感謝した。


月見堂の御本尊は薬師如来。鞍馬山で剣術修行に明け暮れていた遮那王(しゃなおう:後の源義経)を奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元に連れていったという伝説の人物・金売吉次(かねうりきちじ)は月見堂の薬師如来を護り本尊としていたという。


吉次は当地で金鉱を発掘して巨万の富を得、長者となったことから月見堂の御本尊は出世薬師と呼ばれている。


信濃比叡広拯院から下の景色を望むと絶景が広がる。

この美しき瑞穂の国-201006191221000.jpg

なんとも静かでのどかな景色だ。広拯院が建立されてより後の旅人たちにとって、この絶景はひとときの安らぎを与えてくれたことだろう。



信濃比叡広拯院をお参りした後、更に神坂峠を上にあがって神坂神社に向かった。


(つづく)