坂上田村麻呂 | この美しき瑞穂の国

坂上田村麻呂

本日は2008年2月11日に訪れた坂上田村麻呂の墓のご紹介。


2008年初頭は蝦夷(えぞ、えみし)を意識した神社参りをしていた。

日本の古代において、朝廷と蝦夷の間にはしばしば戦争があり、その激戦地には深い業(ごう)が染み付いている。そのため業の深い地を訪れて少しでも業の解消になれば・・・と考えての行動だった。


まず最初の蝦夷ゆかりの地巡りとして2008年1月13日に宮城県塩竃市の鹽竃神社を訪れたのだが、近くには多賀城(たがじょう、たがのき)という東北地方の蝦夷に対する朝廷の軍事拠点、鎮守府(ちんじゅふ)があった。


この旅で白石駅から仙台駅に向かう電車が猛烈な吹雪により白石駅で運休してしまったのだった。


すっかり途方に暮れてしまったが、新幹線は動いているという情報を得た為、在来線で白石駅より福島駅まで戻った。

そして福島駅から新幹線で仙台駅まで行き、仙台駅から在来線で塩釜駅に向かい、辛うじて鹽竃神社にお参り出来たのであった。そして鹽竃神社で朝廷と蝦夷の戦いにおける業の解消を願ったのだった。


ちなみに白石駅から塩釜駅へ向かうルートは歴史的にみれば朝廷と蝦夷の激戦区であった。

僕が業の深い場所に初めて訪れると、たいてい大雨、強風、吹雪、地震などが起こって電車が遅延、もしくは運休してしまう。この時もその一例だった。



そして2008年2月10日には東北地方に威を誇った蝦夷の長アテルイとモレの首塚を訪れたのだった。


アテルイに関する話のあらすじを以下に記す。


789年、蝦夷征伐のため征東将軍・紀古佐美(きこさみ)が胆沢(いさわ)に侵攻。

紀古佐美は衣川に駐屯するもなかなか蝦夷を攻めなかった。この事に業を煮やした桓武天皇が叱責したため紀古佐美は蝦夷攻めを開始した。


北上川の西に三ヶ所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうちの4000が北上川を渡り、蝦夷の長アテルイの住居を攻めて蝦夷軍300と交戦。

はじめは圧倒的に数で勝る朝廷軍が押しまくるが、北上川対岸に残した本軍と合流しようとしたところで蝦夷軍800が加わって反撃してきた。


そして更に東山から蝦夷軍400が現れて朝廷軍の後方を塞いだため、朝廷軍は周りを囲まれて袋のネズミ状態となり壊走した。


この時、朝廷軍の戦死者は25人、矢による負傷者245人、川で溺死した者1036人、鎧も武器も捨てて裸で泳ぎ逃げた者1257人の大損害を出し大敗を喫した。


蝦夷は寡兵だったにもかかわらず圧倒的な朝廷軍を破ったことからアテルイはかなりの戦上手だったようだ。


しかし793年に再び朝廷より征東将軍として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、征東副使として坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が派遣され、蝦夷軍を胆沢の地から一掃した。この時の戦いで坂上田村麻呂が大活躍したといわれている。


この活躍により坂上田村麻呂は797年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、801年に再び蝦夷を攻めて降伏させた。


そして802年に坂上田村麻呂は胆沢城を築いた。この年の4月15日に蝦夷の長アテルイとモレが500余人の蝦夷を率いて降伏した。


その年の7月10日に坂上田村麻呂はアテルイとモレを連れて平安京に帰京した。


坂上田村麻呂はアテルイとモレの武勇を惜しみ、自らの戦功と引き換えに二人の助命を嘆願したが、平安貴族たちは『野性獣心、反復して定まりなし。』と反対した。そして坂上田村麻呂の嘆願むなしくアテルイとモレは河内国で処刑された。


大阪府枚方市の片埜(かたの)神社そばの公園にはアテルイとモレの首塚がある。


僕がアテルイとモレの首塚を訪れた2008年2月10日、大阪の市街地に珍しく11年ぶりの大雪が降った。


敢えて首塚の写真は撮らなかったが、辺り一面が真っ白な雪に覆われ、正に浄めの雪であった。


首塚の前で観音経と般若心経を唱え、アテルイとモレの武勇を讃えて慰霊した。
アテルイとモレは坂上田村麻呂を男と見込んで投降したのだろう。それに応えるべく坂上田村麻呂が助命嘆願をした・・・敵同士でありながら両者の間には深い信頼関係があったに違いない。

しかし嘆願むなしく・・・坂上田村麻呂にとって残念で仕方がなかったことだろう。


この翌日2月11日に京都府山科区にある坂上田村麻呂の墓を訪れた。

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坂上田村麻呂の墓と比定されているもののうちの一つである。


坂上田村麻呂は平安時代初期の武人で、身長5尺8寸(約175センチ)、体重1斤(約120キロ)、胸板の厚さ1尺2寸(約40センチ)の怪力男で、顔の色は赤みを帯び、目は鷹のように鋭く、髭は黄金の糸のようにバリバリしていたという。


ひとたび怒ると猛獣をたちまち倒し、笑うと赤子もよく懐くといわれたようだ。

坂上田村麻呂は非常に武勇に秀でた武人であったが、情に厚く、仏法を篤く敬うところもあった。

そのため東北地方には坂上田村麻呂が建立した寺があちこちにあるし、京都の清水寺も坂上田村麻呂の建立とされている。


坂上田村麻呂の先祖は古代中国の漢王朝に繋がるという説がある渡来人であった。


毘沙門天の化身のごとき坂上田村麻呂は811年に54歳で病死した。そして遺言により、甲冑を身につけ、刀と弓矢を持った状態で柩に納められ、直立した状態で平安京に向けられて埋葬されたという。


死してなお平安京を護ろうとする想いは真の武人の中の武人である。


坂上田村麻呂の墓の前で観音経、般若心経を唱えてお参りすると、坂上田村麻呂の優しい想いが伝わってくるようだった。


ここはとても居心地が良くてずっと居つきたいぐらいだった。



朝廷と蝦夷の間に古代から中世にかけて数限りなく繰り返された戦いの業がいまだに染み付いている土地がある。しかし抗争による遺恨を乗り越えて両者が和解、和合することを強く願うのである。